moria
いっそ異様なまでに優しく甘い声だった。糖蜜の菓子でもここまでわざとらしい甘さはないであろう。じゃあね、と通話を切って臨也はもう一台の携帯に意識を向ける。簡潔な本文。いくつかのアドレスを指定して、
「一斉そうしーん」
あはははは、と臨也は笑う。
同じように本文を作成しては誰かに纏めて送る。それを何度か繰り返す。それから臨也は地べたに置いておいたノートPCに向き合って再びいくつかのキーを弄り、先程までとは違う画面を呼び出した。池袋の地図に黄色い点が点滅している。点はひとつやふたつで済むようなものではない。いくつもいくつも明滅する黄色い点。それを確認してはぴゅう、と口笛を吹いて「流石運び屋、正確だ」そう言った。
時計を見る。まだ時間には少し余裕があるようだった。秒針を数える。さん、に、いち、ぜろ。
「さあ大詰めだ、全部終わらせてやろうじゃないか」
左手をまるでピストルのように形作って池袋の夜景に向けてから、かしゃん、とノートPCのエンターキーを押し込んだ。
「BOMB☆」
ばぁん、狭い路地に空気を叩くような音が響いて、同時にオレンジと灰色の閃光が一瞬だけ目を焼いた。
「爆発……!?」
にわかにざわつく男達を尻目に、またばぁんと鼓膜をぶん殴るような音が響き渡る。二度、三度と続くそれに、目を焼く鮮やかな炎の色、咽るような火薬の匂い、前も見えないほどの煙の幕。
爆弾、と誰もが脳裏に同じ単語を浮かべた。
その動揺から絞め上げられていた襟首を解放された青葉は、地べたに伏せて何度も咽るように息をした。今の今まで青葉を殴る蹴るしていた男は濃い煙に紛れて見えない。この隙に逃げ出そうとうつ伏せたまま視線を前に遣る。と、白い箱が視界に入った。プラスチック製らしい、小さな箱。一点が微かに赤く点滅している。電柱の下に転がされたそれが目に入った瞬間、先程の爆発も併せてプラスチック爆弾、という単語が過ぎった。
辺りは混乱に包まれている。
頭上からは「なんだてめぇ、やんのかよ!」「死ねやゴラァ!」などの凶悪な言葉が聞こえてくる。知らない声も混じっていた。
どうすればいい、どうすればこの状況から脱出できる。
「こっち」
微かな声が聞こえて青葉は強く手を引かれた。細い手である。男の手ではない。
震える足に力を込めて立ちあがり、手を引かれるままに走り出した。前で手を引いているのはショートヘアーのまだ十代前半であろう少女である。
後ろを振り向くと同じく濃い煙の中から手を引かれるヨシキリらブルースクウェアのメンバーが見えた。どうやら助けられたらしい。
再度ばぁん、と音がしてあの電柱の下からオレンジの閃光が迸った。煙の幔幕からはよりいっそう大きな怒号と殴打音が聞こえてくる。あの先も見えない煙の中で何が起きているのだろう、痛む体に鞭打って走りながら青葉は思考する。そもそもあの爆弾を設置したのは誰なのだろう。
少女は青葉を引っ張りながら細い裏路地を迷いなく走って、やがて打ちっぱなしのコンクリートが目にも寒々しい廃ビルの前に辿りついた。
「屋上に行って」
それだけ言うと青葉が呆気にとられている間に少女は踵を翻して駆けて行ってしまった。後ろから追いついたメンバーの手を引いていた少年少女らも同様の言葉を残して姿を消してしまう。なんなんだ、と青葉は汗で貼りついた髪を掻き上げた。
「おい、青葉、さっきの子なんだよ」
こちらも肩で息をしながらメンバーが青葉に尋ねる。
「こっちが聞きてぇよ」
肋骨のような空洞をぽかりと曝け出している廃ビルの中には錆びた階段が上まで伸びている。「屋上……」ぽつりと呟いた。
「屋上、行ってみるか」
皆が皆ぼろぼろであるうえに体力すら底をついている。中には立ちあがることもままならない者もいる。だというのに不思議と異存はなかった。助けてくれた少年少女らが何故屋上へ、と言ったのか、理由を知りたいとも思ったのかもしれない。
重苦しい音をたてて階段を一段づつ踏みしめる。中央に階段が設えてあるこの建物を、4階分ほど昇ったところで鉄製のドアがついた小部屋に辿りついた。呆気ないゴールの扉を、体で押しあけるようにして外に出る。
「や、いい夜だね」
月を背景にしてにやにや笑っていたのは、
「折原臨也……!」
青葉が最も敵視する折原臨也その人であった。思わず剣呑な声が飛び出て、それにすら臨也は笑みを深めた。
「感謝こそされても恨まれるのはお門違いだと思うんだけどね、黒沼君。君たちをあそこから助け出したのは俺だよ?」
まあ君たちはそこで黙って見てなよ、じきに全部終わるんだから。そう言って臨也は屋上のフェンスに寄りかかった。時折眩しい光が現れては消える。音までは届かないものの、あのプラスチック爆弾が爆発した光なのだろう。
「あの爆弾は、アンタか、折原臨也」
「さあ、俺はそこまでは関知してないな。俺がやったのは君たちを襲ってた奴らが同士討ちするようにっていう誘導と、俺の信者を使って君たちをここに向かわせるだけだからね」
ひらひら手を振って答える。
嘘だ、青葉は直感した。あの爆弾は偶然にしてはあまりにタイミングが良すぎる。
爆発がなければ青葉達はあの場所から逃げることなどできなかったし、助けに入った臨也の信者だって明らかに爆発が起きることを知っていた様子だった。
しかし爆弾は地面に転がされていただけである。予測不可能な喧嘩を仲裁するためだけにどうしてあの場所に置いてあったのだろうか。
「そうだ、帝人先輩……」
彼は無事だろうか。ポケットを探るが、携帯をとり落としていたことに気付く。舌打ちでもしたい気分だった。
「帝人君なら今こっちに向かってるよ」
最も聞きたくない声からそう告げられて、青葉は自然と渋面になる。
間も無くやってきた帝人に連れられるようにして他のメンバーも姿を現す。誰も彼もあちこちに怪我を負っていて痛々しいほどであったが、骨が折れるほどの大怪我を負っている者はいないようだった。
池袋の喧騒はまだ続いている。同士討ちという臨也の言葉を信じるなら、今喧嘩をしている奴らがブルースクウェアを襲った奴らで間違いなかった。
「もう警察が飛んでくるんじゃないかな」
耳を澄ませればサイレンらしき音も聞こえる。爆発があったことで警察も迅速に動いたのだろう。よくよくあの場に留まっていなくてよかったと思う。警察の御用になるのは御免だった。
コンクリートを背にして座り込んでいれば、まだいくらかは体の痛みもましなようだった。腕や足は青あざだらけだろう。殴られた鬱血斑をどうやって誤魔化そうか、それが考えられる程度には脳に酸素が行き渡っているようである。
「青葉君、無事?」
「ええ、辛うじて……」
ようやく整った呼吸で青葉は言う。屈んだ帝人と視線の高さがぴったり合って、悲しそうな目が視界に飛び込んできた。
う、とたじろぐ。
ほんの一時の感情だが、帝人が自分達の情報を売ったのではないかと考えた自分が恥ずかしくなって青葉は視線を逸らした。帝人は青葉の地面に擦れてざらつく頬に手をやって、間に合わなくて、ごめん。と言った。
それからすっくと立った帝人は臨也に向き直ると礼儀正しく一礼した。
「いろいろご迷惑をおかけしました、臨也さん」
「いいえ、どういたしまして帝人君」