moria
何がしかの曲が穏やかに流れている。洋楽のようで、歌詞は聞きとれない。暗く物悲しいフレーズが響き渡り、白と黒で構成された部屋を憂鬱な印象に見せるようだった。
どことなく臨也には似合わないな、と帝人は中空を見る。天井近くに設置されたスピーカーから繰り返し流れてくるこの曲は、臨也のお気に入りなのだろう。
「あまり聞かない曲ですけど、臨也さんの好きな曲ですか?」
うん?と臨也は帝人の前にコーヒーのカップを二客置きながら「そうだな」と呟いた。
帝人は放課後、すぐに臨也の家を訪ねていた。先日ブルースクウェアを襲った者達の情報を提供するという臨也の言によるものだったが、臨也に恩を感じている帝人たっての希望でもあった。
「ハンガリーで発表されたものでね、数百人もの自殺者を出した曲だよ」
「すうひゃ……自殺者をですか!?」
「そう。当時の時代背景もあったらしいけどね、今でもこの曲は自殺の聖歌と呼ばれている」
「なんでそんな曲を?」
「ただの知的好奇心さ。この曲で本当に人が自殺するのか、なんてね」
「趣味悪いですよ、臨也さん」
「今更だね、帝人君」
からからと乾いた声だった。帝人の向かいに座った臨也はコーヒーを啜って笑う。
「臨也さんが人を死に追いやるなんて、思えません」
趣味の悪い冗談ですね、と帝人は臨也と正反対のただ心の底から臨也を信じ切った笑みを見せて、苦いコーヒーを口に含んだ。臨也は肩を竦めてにやにや口角を上げるだけだった。
「さて、情報提供の件だったね」
ガラステーブルに投げ出された茶色い封筒を指さして、開けて御覧、と嘯けばおずおずと細い頼りない指が厚い封筒を掴む。
「仔細はそれを見てもらえばいいけど、殆どが元・ダラーズメンバーだったよ。それまでの経歴を見る限り、君たちが退会に追いやった、ね」
ブルースクウェアに直接的な恨みを持つ人物の犯行、それを知って帝人はぎゅうと唇を噛んだ。予想していなかったわけではない。ただ、ここまで計画的で大々的になるとは思っていなかっただけだった。
「誰か、裏がいるのでしょうか」
自然、そういう考えに行きつく。元々彼らは組織を編成し、纏めるほどの力はない筈だった。何枚もの個人のプロフィールが記された紙を捲る。
テーブルの向うでぱちぱち拍手の音がしたので、書類から目を外して見上げた。臨也が軽く手を叩いて「せーかい」そう口を歪める。
「その書類、特記事項のところを見て御覧」
書類の一番下、あまり大きくない欄に『特記』と確かに書いてある。
「なお、彼らは『オリハライザヤ』にそそのかされたと証言しており……臨也さん!?」
これはどういうことなのだ、と帝人は臨也を見る。臨也の表情は笑顔のまま崩れない。
「端的に説明すると、俺のニセモノだね。ほら、こっちがその、『オリハライザヤ』の写真だよ」
ごたーいめーん、おちゃらけた様子で取り出した一枚の写真に映っていた人物は、黒っぽいファーのついたフードコートこそ臨也にそっくりなものの、あとは似ても似つかない青年だった。
「情報屋って信頼が一番のお仕事だからさ、俺の名前を語って好き勝手してくれたこいつをどうしても探し出したかったんだけどね……あの事件の後、すぐ海外に高跳びしたみたいで足取りが掴めなくってさ。写真手に入れるだけでも苦労したもんだよ」
帝人はそれで何故臨也がここまで協力的だったのか得心がいった。臨也もまた、ダラーズという情報網を使いたかったということなのだろう。
「まぁ、こんな奴もういいけどさ。自分の企みが俺に破られて、今頃戦々恐々としてるだろうし」
その写真はきみにあげる。裏面にでかでかと『偽オリハライザヤ』とマジックペンで書かれた写真を帝人に手渡すと、臨也は二杯目のコーヒーを注ぐために席を立った。
帝人も慌てて冷めてしまったコーヒーを啜る。ひたすら苦かった。
戻ってきた臨也が「俺としてはこれ以上望むべくもない結果だ。暴れてた奴らは皆、警察の御用になったし、奴は海外に逃げた。言うことないよ」
ソファに体重を預けて暖かいコーヒーをテーブルに置く。そっち、もう冷えてるだろう。こっちを飲みな、と二つ持ってきたカップの一つを帝人に差し出した。ミルクと砂糖が入った、濁った色をしたコーヒー。帝人はそれに口をつけてみる。暖かく、僅かに甘かった。
「臨也さんって、やっぱりいい人ですね」気紛れだけど、信頼に足るいい人だ。
その言葉を受けた臨也は、意外なことを言われたとぱちくり目を瞬かせると、
「それこそ、今更だよ」
目を伏せてそう言った。