晴天の霹靂
小十郎にとって、それがどれだけの安堵と喜びであったか。
以来、農を学び、手塩にかけて育てる作物の数は年々増えていき、今となっては年中暇をみつけては何かを育てているという様だった。
初めは梵天丸さまの御為、ただその思いだけだったが、今ではすっかり己自身でも怡楽(いらく)を得ている。
大地はいきものであるが故、思い通りにならぬことの連続で、そういった農作の苦労を味わった後の収穫時には、筆舌に尽くし難い喜びがある。
すっかりその虜になってしまったといって差し支えないだろう。
そして何より、今でも小十郎の作る物を政宗様が喜んでくださるのが、作り手冥利に尽きるというもの。
今はただ土の色ばかりのこの場所に、やがて様々な葉が繁り、花が咲き、土の上にも下にも実りがもたらされる。
その様を思い描きながら、小十郎は鍬を振り上げた。
雪どけしたとはいえ、冬の間の霜で水分をたっぷり含んでぬかった土を耕すのは、容易な仕事ではない。
しっかりと足を踏ん張り、腰と重心を据えて鍬を振るわなければ、打ち込んだ傍から土に跳ね返されてしまう。
まるで大地に足腰を鍛えられているかのようなこの作業は、武芸の基礎である身体錬磨に通じるところがある。これも修練と思って鍬を振り続ければ、一石二鳥というもの。
小十郎は、黙々と土を耕した。
頭上の晴天を時折鳥が行き交い、寒風の中にほんのりと暖かな春風が吹き込む。
穏やかな早春の時の流れの中で、ざっざっと丹念に土を耕し続ける。
その心境はだんだんと無我に近く、ただひたすら没頭していた。
と。
不意に、背後から声が聞こえた。
「……ずいぶんと、精が出るじゃないか」
凛とした、けれど少しはすっぱな物言いに、小十郎は鍬をふるう腕を止めた。
わずかにかすれた低音、それでいて女性らしい艶やかさを余韻に残す、その声の主を間違うはずもない。
「――――これは姉上」
振り返ればその通り、小十郎の異父姉(あね)、喜多(きた)がそこにいた。
「いつ、大森(こちら)へ」
「つい先刻ついたばかりだよ。城の門番に、そなたはここに居ると聞いてね。体をほぐしがてら、少し歩いてきたのさ……まったく、輿というのは、どうにも疲れて難儀するねぇ。自分で馬を駆ってくる方が、よほど楽で早いというのに」
ため息混じりに愚痴る彼女に、小十郎は笑みかけた。
「そのような無茶を仰って、側仕えの者を困らせてはなりませんぞ。姉上も、もうお体を大事にしませんと」
「わらわを年寄り扱いか。景綱、そなたも大人になったものだ」
くつくつと笑う、喜多は御年四十五。
しかし、年齢を微塵も感じさせない若さと華やかさを纏っていた。
小柄ながら背筋の伸びた身を包む、萌え出でる若木の如くやわらかい濃淡で織られた碧の羽織はあざやかに、喜多の貫禄と冴え冴えとした美貌を引き立てる。
装いの派手さの中にも嫌味のない清冽な一本気を感じさせるのは、彼女の気性と雰囲気がそうさせるのだろう。
躊躇なくぬかるんだ畑に入ってこようとする喜多に、小十郎は慌てて歩み寄った。
「姉上、ここはひどくぬかるんでおりますから、そう動かぬ方がよろしい。さ、せめてこちらに」
手を取って、踏み固められて乾燥している土手の方に導いてやると、喜多はじっと小十郎を見上げてまた笑った。
「まあ、ほんに違和感のないこと。そなた、殿に見限られたら、百姓をやると良いな。戦場で血塗れになっているより、こうして泥まみれになっている方が、男振りも上がるというものさ」
「……手厳しいことを言ってくれますな」
小十郎は苦笑した。
己との年齢差、十六。母と言っても良いこの姉には、部下や敵国から『鬼』と呼ばれるさしもの小十郎も、まるで頭が上がらない。
腰の手ぬぐいを取って目立つところにはねた泥をぬぐいながら、小十郎は、姉に問い返した。
「しかし本日はまた、急なお越しですね。いらっしゃるとわかっていれば、城でお迎えしましたのに。何事かありましたか」
すると喜多は、柳眉をきつく上げて言った。
「そなたを訪ねたわけではない」
「はぁ……、」
思いもかけぬ反応に小十郎が戸惑っていると、喜多はますます眉をつり上げる。
「朝の一番に、米沢の殿をお訪ねしたのだ。もちろん、数日前に文をお送りして、喜多が参るとの連絡は済ませておいてね。だというのに、城には肝心の殿がいらっしゃらなかった」
「……政宗様が」
いない、とはどういう事か。ここしばらくの予定で、朝から城を空けるような用事はなかったはずだ。
と思案して、小十郎は嫌な予感に駆られた。まさか。
まさか、家中の者どもの目を盗んで、出奔なされたのか。
「姉上、……それはまさか」
「さすがに察しがいいね、景綱。そなたの思っている通りさ。いなくなった殿をお探しして城中がひっくり返る騒ぎで、とてもわらわを迎えられるような状況ではなくてねぇ」
「……それは……とんだ不手際で、面目ござらぬ」
やれやれと息をついている喜多に、小十郎は平身低頭だった。
喜多は政宗の乳母であり、それ相応の歓待をされてしかるべき身分だというのに、登城もかなわず大森まで足労をかける羽目になったとは何ともあるまじき事態だ。
身内の事とはいえ、こんなことでは米沢の沽券に関わる。
――――全く、何をやっていやがるんだ、あいつらは……っ。
小十郎は、米沢城に居る部下たちの顔を思い出して、静かな怒りに燃えた。
自分が米沢の武家屋敷を出る際、わらわらと寄ってきて『小十郎様、筆頭の事は我々にお任せくださいッ』とガン首そろえて威勢良く言い放ったのは、どこのどいつらだ。
お守りさえ満足に出来ねェで、何が伊達軍の兵(つわもの)か。
……あの野郎共、速攻で根性入れ直してやる。三度後悔するまで、徹底的に叩き直してやるから覚悟しやがれ……。
頼りない部下たちへのきつい叱責を固く胸に誓う小十郎に、喜多は笑みかけてくる。
「仕方がないので、そなたの所へ参った次第だ。急な事で、すまぬな景綱」
「いいえ、とんでもない。では、せめてこちらでゆるりと寛いでいかれたらよろしい、ここはすぐに引き上げますから」
どうぞ城へ、と促したが、喜多は笑んだまま首を横に振った。
「ここでよい。言ったであろう、"そなたを訪ねたわけではない"と」
「……はあ……」
喜多の言葉の真意がわからず、小十郎は首をかしげる。
その時だった。
「Hey! 小十郎ォ、少しばかり野菜を用立て――――ってうおわあぁあッ」
その声は、まったく唐突に。
聞きなれた軽い口調と、聞きなれない驚嘆の悲鳴は、どちらも、ここにいるはずのない主君のもので。
「――――ッ、……ま、政宗様……っ」
振り返った小十郎は、はたして、そこに政宗の姿を見出して目を見開く。
どうしてあなたがここに、という疑問を口にしたのは、政宗が先だった。
「き、き、喜多……な、なんでここに……っっ」
仰け反らんばかりに半身を引いて、政宗は震える手で喜多を指している。
喜多は、微笑を深めた。
「これは殿、ご機嫌麗しゅう。この喜多の顔を見るなり蛙でも踏み潰したような声をおあげになるとは、ここにわらわが居ては、何ぞ不都合なことでもおありで」