光
フリックは木にもたれかかって、今しがたビクトールの目に飛び込んできた景色を微動だにせずに見つめていた。ビクトールは文句の一つも言ってやろうと口を開きかけたが、突然現れた第三者の存在に彼がまるで気がついていない様子だったので、思わず声をかけそびれた。
フリックは真っ直ぐに目の前の風景を眺めていた。
その視線につられるように、ビクトールはもう一度、眼下に目をやる。
やはり崖から見下ろす風景は、霧にふさがれてなんとか町の輪郭がぼんやりと浮かび上がっているだけだった。
だが、こうして改めて見てみると、何かしら感慨深いものがあった。先ほどは驚きが先に立っていたせいで、それ以上に感じるようなところはなかった。それなのに今、目の前に広がる自然の景色に胸が打たれるのは、そこにその人間の気持ちが入ってくるからだ。そこにある風景は、そこにあるだけのものでしかない。けれど人は、その目に映るものに様々な想いを込める。そしてその人間だけにわかる特別な意味ができあがる。
そんなことを意識せずに当たり前のようにやってのける人間が、ビクトールは好きだった。ちっぽけで浅はかな人間の行いが、ビクトールは好きだった。
「やっと来たのか。遅かったな」
目の前の景色になかば心を奪われ、ぼうっとしていたビクトールの耳に、突然フリックの声が響いた。
目をやれば、木の幹に背中をあずけた姿勢のまま、大儀そうにフリックがビクトールを見ている。
「遅かったっておまえなあ。…やっぱりわざと残していったんだな、あれは」
呆れ声で少々皮肉を込めて返せば、フリックが苦笑した。
「まあな。おまえが帰ってきたら、また俺を捜し始めるんじゃないかと思ってさ。こんな雨上がりの時に泥だらけになるのは嫌だろ?」
「お気づかいに感謝するぜ、まったく」
ビクトールは、やれやれと盛大に溜息をつく。すると、フリックの口からそれより大きな溜息がわざとらしく漏れた。
「本当に…こんなにお節介なやつだとは、この村に来るまで知らなかったぜ」
「わかったなら、もう世話焼かすようなことするんじゃねえよ」
「さあな。世話を焼いてくれと頼んだ覚えはないからな」
「おまえなあ…」
フリックの減らず口に、ビクトールは脱力しかかった。こっちだって今の今まで、この男がこんなヤツだとは知らなかった。
「それじゃあこっちも言ってやら。おまえがこんなに我がままだとは思わなかった」
「我がまま…か……」
フリックはビクトールの言葉をおうむ返しに呟いた。ビクトールは、てっきりフリックが怒鳴り返してくるものとばかり思っていたので、相手の予想に反する静かな反応に戸惑いを覚えた。まるで溜息を吐き出すようにひっそりと紡がれた言葉の調子が、ビクトールの神経のどこかにひっかかる。
なんとなく気になったのだが、フリックのほうはもうビクトールを見てはいなかった。目を閉じわずかに肩を揺らして木にもたれかかっている。
思わずビクトールの口から、舌打ちがついて出た。フリックのこういう強情なところは、解放軍に入ったあの頃から知っていたつもりだった。
「おまえなあ…。本っ当に我がままで頑固で意地っ張りで、おまけに考えなしだな」
「…うるさい」
「そういうセリフは威勢良く言え」
ビクトールはゆっくりとフリックに近づいていく。彼の肩に手を置いて、下からのぞきこむように顔を見た。うつむいたフリックの額には、ビッシリと脂汗が浮かんでいる。
無理してんじゃねえよ、と小さく毒づいて、ビクトールは支えるようにフリックの肩に手を回そうとした。だが、フリックはビクトールの手から逃れるように体をずらす。
「おい? なにやって…」
「………」
フリックの口から掠れた声が漏れたのを聞き逃し、ビクトールが問い直す。
「…まだ……」
フリックは相変わらず目を閉じたまま、握りしめた拳をゆっくりとビクトールのほうへと突き出した。
ビクトールが手のひらでフリックの拳を受け止めると、固く握られていた指が開かれる。小さくて固い感触がした。
ビクトールは、自分の手のひらへと伝ってきたものに目をやったが、一瞬それが何であるのかがわからなかった。思わず問おうとして、その答えがいきなり頭の中で閃き、息を呑んでそのまま動けなくなる。
それは耳飾だった。青い小粒の宝石が装飾された、小さなイヤリング。
オデッサが、最期の時にしていたイヤリング。
彼女から形見のように託され、最後の戦いの直前にフリックの元に渡ったイヤリングだった。
「おまえ…これ……」
「…ここに埋めよう」
フリックがやけにきっぱりした口調で言った。思わぬ言葉に驚いてビクトールが顔を上げれば、フリックの視線は切り立った崖から少し離れた場所に立っている大木の根元に向けられていた。
「埋める?」
ビクトールにはフリックが何を言っているのかわからなかった。
埋める? このイヤリングを? 亡骸さえ水に流されどこを漂っているのかわからないというのに、たった一つ残された彼女の形見を、埋める?
「本気かよ」
「ああ」
フリックの口調は断固としたものだった。ビクトールの目の前で一度大きく深呼吸した後、そばから離れて大木のほうへと近づいていく。ビクトールは、一拍反応が遅れてから、慌ててフリックの隣に並んだ。
「おい…」
「手助けは必要ない」
ビクトールが差し出そうとした手を断って、フリックはゆっくりと、だが確実に前へと歩を進めていく。
彼は自分の力でその場所に辿り着きたがっていた。
そのことがわかったから、ビクトールはどうすることもできず、ただ黙ってフリックの隣を一緒に歩いていった。
普段より時間はかかったが、フリックは間違いなく大木の根元に着いた。立ち止まるとひざまずき、ビクトールに向かって再び右手を出してきた。
「イヤリング、貸してくれ。ここに埋める」
ビクトールは、フリックの右手と自分の手に握られた小さな固いものを順番に見やって、しばらく逡巡してからそれを握り締めたままフリックと同じように隣に膝をついた。
「おい…」
「俺にもやらせろよ。そのぐらいの権利はあるだろ?」
咎めるように何か言いかけたフリックの言葉を遮って、多分に水を吸った土を掘り返し始める。隣でフリックが小さな溜息をつく音が聞こえたが、それ以上は何も言わずに止めようともしなかった。二人して無言で土を掘り返し続ける。雨のせいで少し水が溜まっており土の表面は柔らかかったが、掘り返していくうちにどんどん固くなってきた。
「あ~。ちょっと手でこれ以上掘り進めるのは無理だな」
ある程度の深さまで掘ったところで、ビクトールは顔を上げると周りを見回して、ちょうどいい頃合の石を拾い上げる。
「おまえはちょっとどいてな。おっと、文句言うなよ。どうせ脇腹に傷持ってるんじゃ、たいした力も入らねえだろ」
何か言いかけようとするフリックを制して、ビクトールは穴の前に戻ると手で追い払う仕草をする。フリックは少しむっとしたようだったが、どうせ何を言っても無駄だと諦めたのか、黙ってその場をどいた。