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長滝小話

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 さすが恋人、とはさすがに口には出さずに頷いてみせる。
 しかし今の会話からすれば、少なくとも図書室は限られた場所のひとつらしい。
 いや図書室が、というよりも長次がいたからか。結構な惚気を聞かされましたと肩を竦めて、糊を溶く。
「四年生は、大変ですね。滝夜叉丸はかなりの講義を取っているんでしょう?」
 そもそも滝夜叉丸が居眠りしたのも、始まったばかりの課外授業のペースがつかめていないからだろう。この時期の四年生にはよく見られる光景で、雷蔵自身も過去に通った道だ。
 今日貸し出した図書を思い浮かべて言えば。
「お前は大変だったのか?」
 物静かな瞳を向けられる。この意図のつかみにくい視線こそ、多くの生徒が長次を苦手とする理由のひとつ。しかしそれは慣れてしまえば、とても雄弁なものになる。だから首を横に振る。
「いえ、失言でした」
 大変でも、乗り越えるから上級生はここにいる。
 そうか、とつぶやいた長次の手は休むことはないし、雷蔵の手もまた動き続ける。
 図書室で休息を取った後輩も、今頃は急いで食事をとって予習に励んでいることだろう。
 紙が擦れる音の中、課外授業開始を告げる鐘の音が暗がりの空に響いた。

***

「中在家先輩、いらっしゃいますか?」
 廊下から入室を問う声に、部屋にいた小平太と長次は顔を上げる。彼らが四年生のころから聞きなれた声だ。ただ、その声が呼ぶ名は、この数か月で変わってしまったが。
「滝夜叉丸、入っていいぞ!」
 長次の反応を待たずに、小平太があっさり返事をする。変な話ではあるが、この部屋ではそれがごく当然で、体育委員として何度も小平太を訪ねていた滝夜叉丸にとっても慣れたこと。失礼しますと声をかけ、戸の隙間から滑り込む。
 夜も更けているというのに、出迎える小平太は未だ忍服のままだ。もちろん訪問している滝夜叉丸も忍服なので、一人夜着の長次が部屋で妙に浮く。
「こんな遅くにどうしたんだ? 長次の夜這いなら邪魔をしてやるぞ」
「馬鹿なことを言わないでください。夜這いならちゃんと計画を立ててします!」
 普段の委員会そのままに、朗らかに交わされる会話。内容が内容なだけに、長次はいささか体育委員会の活動に不安を覚えるが、当の二人は犬猫がじゃれあうように笑っている。
「滝夜叉丸にそんな甲斐性があるとは、私は今まで知らなかったぞ?」
「必要があれば私だって考えます」
「……だそうだ。楽しみだな、長次!」
 同室者の朗らかな声に、少しむっとしたように頬を膨らませている後輩。見慣れた風景だが、人をダシにしている時点でいささか面白くはない。
 学園一ギンギンに忍者している友人と夜の鍛錬に向かうはずの相手に向かって、さっさと行けと手を払う。
 ちぇー、なんてかわいい声で抗議するが、顔に浮かんでいるのは満面の笑み。後輩をからかって遊んでいるのだから、困った奴である。
「じゃ、行って来る。夜這いしててもいいぞ」
「先輩っ!!」
 滝夜叉丸の抗議を頭ひとつ撫でて押さえると、いつもの掛け声と共に部屋を出て行く。まったく落ち着きがないというか、激しいというか。溜息ひとつ吐けば、開けっ放しの戸を閉めた滝夜叉丸が近くで正座する。
「……夜這いをするか?」
 未だむっとしたままの顔に向かって呟いてみる。この表情は、じつは彼の照れ隠しであることを知ったのはいつだったか。自信家であるくせに、何故か自分との行為に関することについては非常に不器用な態度を見せる。可愛くもあるのだが、たまにいらつくのも事実。もっとも、さすがに今日はそこまでいってはいないけれど。
「中在家先輩まで、そういう冗談はよしてください」
 苦虫を噛み潰したような、しかし赤い顔で抗議してくる。さすが長年、小平太の下で振り回されてきただけのことはある。簡単に折れやしない。
「もしするなら、いきなりしますっ。寝首をかいてやりますとも!」
「それは、楽しみにしていよう」
 フンと鼻を鳴らしての決意宣言。こういう態度に出ているときは、おそらくこれっぽちも実行する気はないのだろう。外側だけをしっかり固めておきたい、滝夜叉丸らしい物言い。だからこちらも受け流す。半分ぐらいの期待は込めているが、あまり人の心の機微を察しない後輩は気づかないだろう。しかし、それでいいと思う。

 言葉を紡ぐ行為を面倒だとは思わない。だが、己が言葉を発せずとも世の中は動き、一歩引いた立ち位置の方が全体を見渡せる。慎重的とも自覚するこの性格は、結果的に無口で感情の揺れの少ない男を作り出した。
 ただ残念ながら、頭では数多の言葉が生まれるというのに、口にしないだけで会話能力は非常に劣化するらしい。おかげで喋るのがすっかり下手になり、そうして喋ることが減り、ますます駄目になるという悪循環に陥った。
 小平太をはじめ、察しのよい友人たちが周りにいたおかげで不自由は少ないが、それでも困ることはないわけではない。半分は諦め、残り半分の8割は行動で解決。残った2割を言葉にする。言葉を紡ぐのが面倒でなくても、効率を考えたらそうなっているだけだ。
 だから今も、滝夜叉丸がここへ自分を尋ねてきた理由を目で問う。こういうところでは、この後輩は察しがいい。先ほどまでのじゃれあいの空気をすっかり剥がして、姿勢を正す。
「以前、先輩が兵法書をいくつもお持ちだとお話されていたのを思い出して。いくつかお借りできないでしょうか?」
 現在、四年生は今後の専攻決めのための課外授業に明け暮れている。自信家らしく、滝夜叉丸はかなりの講義を取っているという。兵法もそのひとつだが、これは完全に今後の彼に必要なものだろう。
 立ち上がると、押し入れに片付けてある本の山を引っ張り出す。本来ならば表に出しておきたいところだが、この部屋では何が起きるかわからないので大事なものはすべて押入れが鉄則。抱えて滝夜叉丸の前に並べる。
「どれがよい?」
「できれば近年のものを。武家の者が書き綴ったものがあるとおっしゃっていたでしょう?」
 基本である孫子の類は、授業で習う。だからより今の世相を映したものが欲しいのだろう。薄汚れた表紙の本を三冊ばかり選ぶと、滝夜叉丸のほうへ押し出す。
 それをぱらりとめくって中を確認すると、大事そうに押し抱く。
「ありがとうございます。しばらくお借りします」
 返事代わりに頷いて、残りの本を片付ける。その間、滝夜叉丸は借りた本を横に置いて静かに人の背を見ている。
 大抵、二人になれば滝夜叉丸がさまざまなことを喋って、相槌を打つのが長次というポジション。ただこうして、無言になるときもある。はじめのうちは気まずそうにしていた相手も、今では平気らしい。何が楽しいのか、人の姿ばかり見て笑んでいる。
「楽しい、か?」
 押入れを閉じ、振り返りざま問う。意味がわからないのか、小首をかしげる滝夜叉丸の黒髪がさらりと流れる。
「私を見ていただろう」
 また、彼の前に座りなおす。付け足した言葉に、自慢の種である艶やかな笑みで応え、彼は頷く。
「では逆に問いますが、中在家先輩は私を見ていてつまらないとお思いですか?」
 ごく当然な言葉のやり取りに、その通りだと視線を落とし苦笑する。
作品名:長滝小話 作家名:架白ぐら