Ghost
蝉の声が響き始めた、青く冴え渡る季節のことだ。
授業の一環として、一年生と上級生のゼミの合同演習があった。
そしてゼミの終了後に、そのまま親睦会と称した飲み会へ雪崩れ込もうとした所で、当然のように三成は帰り支度をしようとした。興味のないものに参加する義理はない。中学や高校とは違い、集団行動が束縛されているわけでもないので、咎められることもない。三成はいつもそうして、勉学以外の場に顔を出したことはなかったが、この日はその途中でふと興味が湧いた。
他学部のゼミと合流する、という上級生からの説明の中で、あるふたつの名前が出てきたからだ。
その名前は三成も聞いたことがあった。三成よりも数回生分上の人間で、今は大学院の研究科に所属しているという二人の名だった。圧倒的な頭脳を持つ男たちで、他学部の講義にもあまねく出席し、そこで最優秀の成績を根こそぎ奪っていったというのは有名な話だ。
教授と真っ向から議論して打ち負かした挙句にその相手から密かに崇拝されているだとか、各学部の実力者の縁を辿ると必ず五人以内にはその二人にたどり着くだとか、とにかく妙に伝説めいた逸話が多い。彼ら二人が学部生時代に作った論文は、「究極の解答」として出回っている例も多々ある。三成もまた、過去に出回ったそのうちのいくつかを見たことがあったが、確かに他学部の者とは思えない精密かつ大胆な論旨が溢れていた。
より良きものに近づくことに否やはない。
三成は、初めてそうした交流の場へ足を向けた。
そして三成は激しく後悔した。その場所に噂の主の姿はなく、上級生が言うには少し遅れて来るらしい。それまでは騒々しい歓声と、馴れ馴れしい会話に身を浸すだけの状況に陥ったのだ。珍しくも参加した三成に、初めのうちは積極的に話しかけていた同級生たちも、三成の本気の拒絶と嫌悪をすぐに悟って離れていった。
ひとり片隅で酒を舐めながら、三成はやはり来るべきではなかった、と忌々しく思う。
するとひと際大きい歓声があがり、こめかみを引き攣らせた三成がいよいよ席を立とうとした時に、その歓声の原因が見えた。
出入り口に、二人の男が姿を現したのだ。
その姿を視界に捉えた途端、三成の心臓が大きく跳ねた。
「うわ、“竹中様”だ」「“半兵衛様”」「“秀吉様”も一緒だぜ」「ああ、“豊臣様”な」そんな、ひそひそと交わされる学生たちの囁きから、その二人組が件の男たちだとわかった。
だがそれだけのことだ。一度たりとも、すれ違ったことすらないその二人を見て、なぜこれほどに己が動揺しているのか三成には全くわからない。それでも瞬きすらできず、息さえ止めて凝視する視線の先で、柔らかな笑みを浮かべた竹中という男が何かを話し、それを受けて堂々たる体躯を持つ豊臣という男が満足げに頷く。
二人は注目されることに慣れているようで、これほどの視線を集めても全く気にかけることはなく、自然と顔見知りらしい上級生と会話をこなしていた。下級生たちもまた、その様子に浮足立ちながらも、ざわめいていた声を下げて段々と落ち着きを取り戻す。
「ちょっと俺、話しかけてこようかな……」
「馬鹿、行くなら相当な覚悟していけよ」
まだ興奮の醒めきらない口調で、あちらこちらでそんな囁きが飛び交う。
その囁きが羽虫のような雑音となり、三成の頭の中でわんわんと唸り、ぐらりと眩暈がした。
視界が狭まる。
脳が直接締めつけられているようだ。
呼吸の仕方すらわからなくなった。
だが、この場を動くことも、瞬きをすることでさえ厭なのだ。
もう二度と眼を離すことなど、
さすがに突き刺さる視線に気づいたか、見つめる先で、不意に竹中という男が目線をこちらへ向けた。
薄い色合いの、深い知性を湛えた涼しい瞳が三成を映す。
と、その顔がわずかに訝しげになり、ついと足先を三成へ向けた。途端に十戒のように割れる人の合間を抜けながら、その唇が穏やかな声を紡ぎだす。
「そこの君、顔色が―――」
その声を聞いたと同時に、三成の意識は途切れた。