Ghost
竹中半兵衛は、後輩の腕を引っ掴んでつかつかと歩いていた。
一度手伝いを頼んで以来、三成は頼まれずとも率先して二人の研究室へ通うようになった。初めはどうしたものかと思っていた半兵衛や秀吉も、彼が纏め上げた資料の使い勝手の良さに驚いた。一年生とは思えない有能さに、段々と望むがままに仕事を与えていけば、いつのまにやら数週間で三成が研究室にいることは当たり前になっていた。
しかし半兵衛も、さすがに三成が自分の生活すべてをそこに傾けているとは思わなかったのだ。戯れに授業のことを尋ねてみれば、歯切れの悪い口調に最近はずっと出席していないと知って唖然とした。さらに色々尋ねていけば、どうやら家でも資料纏めを続けているようで、食事はおろか睡眠もとっているのかわからない。
なんて危なっかしい。
もう身近な存在となりつつあった後輩の、優れた頭脳に反比例した生活能力のなさに、半兵衛は慌てて三成を自分たちの研究室から引きずり出して食堂へ向かったのだった。
その途中で、半兵衛は自分たちを妙な眼で見る青年に気付いた。
視線を向ければ、鮮やかな黒髪に凛とした精悍な顔立ちをした、見るからに颯爽とした青年が、物言いたげな表情をして半兵衛とその後ろの三成を見つめていた。
「三成君の友達かい?」
そう言いながら、半兵衛は後ろの三成に視線で促した。
よかれと思って研究室に籠もっていたことを叱られ、悄然としながらその背を追っていた三成は、促されるままに顔をあげた。
その眼が、半兵衛の視線を追うようにして家康を捉えた。
そうして視線を交わした途端、家康は自分の呼吸が止まるかと思った。
同時に、三成も「それ」を悟って芯から凍りついた。
三成は、この時になって初めて、己の途方もない変化に気付いたのだ。
三成の視線の先で言葉もなく立ち尽くす男。鮮やかな存在感を放つ、夏の日の太陽のように煩わしく厭わしく眩しい、出会った日から今日この瞬間まで、三成の感情すべてを捕えて離さなかった男。
三成は姿をくらましていたこの数週間、その家康のことを、一瞬だって思い出しもしなかった。
家康を見つめたままの三成の眼に浮かぶのは驚愕ばかりで、あの禍々しい憎しみも屈折した執着も、ひとかけらとて存在しなかった。自分の腹を底の底まで探った末に、何も掴むことができないと知った三成は、茫然として呟いた。
「いえやす」
出逢ってから一度として呼びはしなかった名前は、あっけなく放たれて空気に融けた。
己の中にいた餓えたばけものは、最後にひと声啼くことすらせず、とうに姿を消していたのだ。
まるで初めから存在もしなかった亡霊のように。