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ふうりっち
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■独逸さんの倉庫掃除

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「武勇伝と書くくらいだ、なにか特別な物なんだろう」

 小さくごちるとドイツはシーツを剥がし、そっと蓋を押し開ける。

「……ッ!」

 瞬間、蒼い双眸に飛び込んできたそれは、忘れたくとも忘れることなんて出来ない、懐かしい衣装。それを手に取るとドイツの脳裡に甦る記憶―――。
 兄が纏っていたプロイセン軍の制服――濃紺(プロイセンブルー)、黒に赤いアクセントが入った軍服は、幼少の頃から見慣れたもの。双眸を閉じれば、今でも思い出せる彼の颯爽とした姿。
 軍服は所々擦り切れていたが、馬に跨り戦場を駆けるとき、緋色の外套を夕焼け雲のようにたなびかせ、偉容をもって敵を圧巻させたあの時代の兄は今でも誇りといえる。そして、衣装の下には、当時は色鮮やかであった二角帽があった。度重なる戦と悠久の刻を経た今は、たいぶ煤けてしまっている。

「これは……随分と懐かしいな」

 長い歳月を感じながら、当時の事を思い出すドイツの表情は恍惚としていた。
 尊敬の対象であった当時の兄を思い出すだけで、甘酸っぱい初恋のような気持ちが甦る。
 それらは、時間の中に埋もれるようにして収められていた思い出ではあるが、軍服の背面には鋭い凶器によって裂けた跡も、しっかりと残されていた。かび臭さに混じって微かに硝煙の臭いと血痕の匂いが感じられるほど黒ずんだシミ。それらは、戦いが勝利ばかりではないことを物語る。

「……ああ、分かっている。兄さんだって大戦の中、生を勝ち取ってきたからこそ、今があることぐらい」

 思い出は懐旧の情だけでなく、替えることの出来ない史実の上に成り立っている。
 そして、それらを忘却する事ができないからこそ、胸の奥に止めたあの忌々しい疑念が、時折、湧き上がりドイツを苦しめていた。

「しまっておこう」

 大切な思い出の品ではあるが、この木箱に納められている以上、兄もそんな過去を振り返るつもりはないのだろう。
 わざわざドイツの目から遠ざけるようにして、ここへ隠したことを思えば、兄の気持ちを無下にしてはならない。元あったとき以上に丁寧に衣類をたたみ、木箱を閉じ、シーツで覆う。
 舞い上がった埃までは戻せないが、見た目は先ほどと変わらないはずだ。

「ここに…長居は無用だな」

 懐かしい品々に時を忘れていたが、いつ兄が帰ってこないとも限らない。それに未だ書庫の掃除も終わっていないのだから、予想外の場所での長居は無用だ。
 ドイツは足場を見つけながら扉まで戻ろうと壁に手を掛けた瞬間、それが崩れた。

「っ!」

 シーツの裾を波打たせながら、大きな音を響かせ床へ倒れる。同時に大量の埃を舞い上がり、慌てて口と鼻を袖口で塞ぐとドイツはそれに近付いた。
 壊れてはいないだろうか。傷はないだろうか。覆っていたシーツを剥がし、中身を確認する焦る手付きが不意に止まる。

「絵画……か…」

 最初に目に付いたのは、金の彫刻を施された豪華な額縁。新聞紙一面にも匹敵するほどの大きさを誇る額縁は、長年、室内に放置されていても、その美しさを失うことはなく、由緒のある逸品のようにさえ思えた。
 絵画と分かった以上、ドイツはとりわけ丁寧な手付きでそれを扱った。
 ゆっくりと表に返し、ダストカバーを丁寧にふきあげる。

「良かった。どうやら割れては……ッ!」

 目立ったひび割れがないことに安堵するも、そこに描かれた肖像画を目にした途端、全身から血の気が引いた。
 緋色の絨毯が敷き詰められた部屋で佇む男と、その隣で椅子に腰掛ける男。不服そうに佇立する男は、銀色の髪と紅い眸が特徴的だ。そして、椅子に腰掛ける男は、コート風の軍服に首元は白いマフラーを巻いている。

「兄さんとロシア…か?」

 蒼白の表情のままドイツは絵画に見入っていた。
 未だ色褪せぬ油絵は、まるで当時の情景を切り取ってきたかのような一場面をそこに描いている。それだけでなく描かれた二人の構図は、まるで王と騎士の関係に見える。

『王を護りし騎士』

 ドイツ帝国が建国した当時から兄はドイツの騎士であった。その兄が、ロシアの隣に佇む。それだけで目頭が熱くなる。
 これは違う、そう何度も脳裡で否定しようとも、言い知れない感情が湧き上がってくる。だが、その絵に違和感も覚えた。
 相違点などない筈のキャンバスに、違和感が拭えない。

「兄さんに、……クロスが無い!」

 直立する兄の首元に鉄の十字架―――アイアンクロスが見当たらない。絵師の描き忘れとも思ったが、それは無いだろう。
 足許の絨毯ばかりか、壁のクロス、ロシアが座る椅子の細部にまで緻密に描写されているのに、兄の首元で目立つそれだけを見落とすはずがない。

 ならば―――何故、クロスが無いのか。

 兄はドイツ帝国が誕生してから、首元を彩るクロスを絶対に外さなかった。なのに、この絵には無い。消失されている。
 ロシアと共に描かれているのだから、何らかの陰謀の匂いがしなくもない。しかし、それでもやはり空虚感は拭えない。
 この絵が描かれたと思われる時代は、いま思い返してみても、戦後の混乱期というだけでなく、国家間レベルでドイツが他国を傍受できないように仕向けられていた。そのため、ロシア側に吸収された東ドイツの状況を知る手がかりは皆無だった。
 あの忌まわしい壁の向こうで、兄がクロスを外して生活をしていた事すら、この絵を蜜まで知らなかった。それが悔しくもあり、また切なくもある。

「しかし、……本当に壁だけのせいだったのか?」

 不意に乾いた声が唇から洩れた。
 壁の向こうで東ドイツとしてでも、プロイセンとしてでもなく、兄が暮らしていたのだとしたら。
 昔から秘密主義なところがあったため、真相を問いかけたとしても恐らくはぐらかすだろう。それでも知りたかった。兄がどのような環境下で暮らしていたのか。そして、何故クロスを外したのか。
 そんな疑念が脳裡を過ぎると、額縁の右隅に残された日付が目に留まる。

 『1961年8月13日』

 その日付に、ドイツは言い知れぬわだかまりを覚えた。

「この、日付……」 

 瞬時には思いだせない。なのに胸の奥が軋む。動悸が激しく脈打つ。頭も痛い。

(ああ、これは兄さんの裏切り……なんだ)

 彼の意思ではないと分かっていても、あの分断はドイツの心に大きな傷を残していた。
 東ドイツによって行われた強制的な分断は、兄を支援していたロシアの上司が変わってからも長く続いた。
 忌々しいとさえ思えてしまう、あの出来事が始まった日―――それが、1961年8月13日。





「帰ったぞ~、ヴェスト、腹減った~」

 プロイセンが帰宅すると、頭の上の小鳥も一緒になってピッと鳴く。

「あれ…ヴェスト~?」

 いつもと違い、すぐに反応を寄越さない弟を不審に思ったプロイセンがもう一度呼ぶと、ようやくリビングから「お帰り兄さん」と声が返ってきた。

「なんだ居るじゃねぇか…って、オイ! どうしたんだ?」

 リビングから貌を覗かせた弟に抱く不穏な気配。それを指摘するように、プロイセンは優しい口調へと切り変えた。そのままドイツの脇を抜けリビングに入ると、すぐにソファーに座り込む。