前夜
篝火が見える。夜警に当たっている兵はこんな夜更け、しかも出陣前夜に城内をうろついている司馬懿に奇異の目を向けたが、所詮一兵卒ごときにはわからぬ何かがあるのだろう、と誰も何も問いはしなかった。もし問われたとて司馬懿は答える気もなかったが。
一人を除いては。
「仲達」
そしてその一人は、いた。
沓が石畳を鳴らす。存外大きく響くのは回りの静寂のせいだろう。背後から段々とこちらに近付いて、止まる前に司馬懿は振り向いた。
「子桓様、こんな時間にどうされました」
「それはお前も同じだ。眠りもせずに、いつも悪い顔色が余計悪くなるぞ」
「それは相手の油断を誘えて良いかも知れませんな」
揶揄なのか本気なのかが曖昧な曹丕の言葉は、しかしながら司馬懿には一蹴されて終わりだ。
「全く、お前の減らず口には勝てんな」
「ありがとうございます」
曹丕は司馬懿に口で勝てた試しがない。これ以上何か言ったとてまた言いくるめられて終わりだと判りきっているからか、曹丕はそれきり口を閉ざした。
やや雲のかかった夜空には星がまばらに輝いている。元々は星を見るつもりでここへ来た司馬懿ではあったが、主君の登場ですっかりその気も萎えてしまった。元よりそこまでして見る必要のないものでもあったが。
星を覆う雲がこの調子で増えるようであれば明日は雨かもしれない。頭の隅で采配の微調整を行いながら、司馬懿は空より視線を外した。
「孟達も愚かな男です。曹魏に背いて蜀へなど、余程早死にしたいと見えますな」
司馬懿の言葉は本心だ。目下の敵対勢力である蜀、いや諸葛亮。敵に尻尾を振るだけでなくその相手が彼であるのだから司馬懿の心境は面白い筈もなかった。
曹魏の為にも己の精神の安定の為にも、早期決着を望んでいる。もしかしたらその無意識の気負いがこうして、自身を高ぶらせているのだろうか。
今ここにいるのはただの気紛れであったから、いつもの黒羽の扇は持っていない。話す際、時折隠す癖のある司馬懿の口許。しかし今は覆うもののないそれを曹丕は見ていた。
「奴を含め、二心を抱くような者は全て処断せねばな」
「……これはお厳しい事を申される」
当初離反した孟達の軍勢はさほど大きくはなかった。しかしそれに同調した者達を併呑し、今は多少手を焼く程度には大きくなっている。