春の嵐
外の空気を吸う為にテラスへ降りたローデリヒは、何気なく階下の中庭に目を落とし、かすかに息を飲んだ。
――あの男、だ。
遠目にも一目で判る無造作な、けれど自信に満ちた若い獣のような物腰。
プロイセンが大股で真っ直ぐに歩み寄る先には、ほっそりとした侍女の姿があった。
まさか下働きの娘に戯れかける気だろうか。
ひとの屋敷でなんと不埒な、と先ほどまでの理由無き恐怖も忘れ、ローデリヒはテラスから身を乗り出す。
その次の瞬間、無遠慮に肩に伸ばされた男の手を、振り向きざまに少女が避けた。
「!」
身ごなしが軽い。
金の髪が風をはらんでふわりと広がり、手にした箒を剣のように構えた少女は、男の顔を認めて目を丸くする。
「…ギルベルト!?」
「よう。久しぶりだな、エリザ」
侍女の名はエリザベータ。国名をハンガリーという。オーストリアがつい先日ようやく全域を支配下においたばかりの、騎馬の国であった。
「…久しぶりって、こないだも来やがっ、…て、た、でしょう。毎度毎度、用も無いのに何しに来やがり、…ました、の」
口元をひくつかせながらあきらかに間違った面妖な敬語を使ってみせる少女に、男がぶはっと吹き出す。
「きっしょくわる!」
「んな…っ!」
「なあ似合わねえ女装なんかやめて狩りでも行こうぜ。それともすっかり飼いならされて、もう馬なんて乗れなくなっちまったか?」
「てめえ…命が惜しかったら今すぐその騒がしい口を閉じやがれ」
愛らしい唇から、低く紡がれた罵声に一瞬ローデリヒは目眩を覚える。
(…あれほどしつけたというのに、相変わらず…!)
だがプロイセンは、彼女の容姿に不似合いすぎる悪態など気にもとめないようだった。
むしろ瞳に喜悦を滲ませ、乱暴な手つきでその金の髪をぐいと引っ張る。
「…やっと化けの皮がはがれたな。馬族あがりの男女にゃそっちの方がお似合いだぜ」
「っ!!」
少女の瞳にちり、と炎が閃いた。頭ひとつ程背の高い男をまっすぐ見上げた彼女は柔らかな面差しに、にこり、と愛らしい微笑みをを浮かべ――
次の瞬間身体をしならせ、その腹に容赦ない蹴りを叩きこんだ。
ぐは、と身を屈めるプロイセン。
「いっ…てえなこのっ!!」
反撃とばかりに彼は両手で彼女の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
(――おや?)
一連のやりとりを半ば呆然と眺めていたローデリヒはふと若干の違和感に目をすがめた。
ハンガリーは確かに稀に見る暴れ者だが、勢いづく軍国プロイセンに比べれば力の差など歴然である。
夢中で掴み合っていると見せかけても、端から見れば男が手加減しているのは明らかだった。
「散々ボコった相手の家で下女かよ!みっともねえな」
口汚く罵りながら、どこかくすぐったそうに、うれしそうに、プロイセンが笑う。
その眩しげに細めたまなざしの奥に透けるのは――隠しようもない一途な慕情。
(!!…この男は――)
まるで、素直でない子供ではないか。先ほどまでぞっとするほど不吉な闇を覗かせていたくせに。
今、不器用な距離を保ちながら少女の美しい怒り顔を楽しむ男の表情は、先ほどとはがらりと印象が違い、年相応よりいっそ幼くすら見える。