春の嵐
しばし、山犬の仔が噛み合うような乱暴な掴みあいの後。
いつの間にか頬を高潮させすっかり息を上げたハンガリーは、汗ひとつ滲ませないプロイセンを見て、一瞬、傷ついたように唇を噛んだ。
そしてぱたりと手を止め、踵を反す。
「……とっとと巣に帰れよ。オーストリアさんの吸う空気が穢れる」
「使用人ふぜいに言われる筋合いはねえぜ!俺様はその『オーストリアさん』に呼ばれて、来てやったんだからな」
「呼ばれたってまさかお前…」
はっと目を見開く少女に、プロイセンは勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「聞いて驚け!今日から俺は、プロイセン『王国』様だぜ」
「っ…ん、だと…!」
子供のように胸を張ってみせたプロイセンは、少女の瞳に一抹の尊敬なりとを求めてそわそわと彼女の顔をうかがう。しかし彼の目に映ったのは苦しげに歪んた少女の顔だった。
宝石に似た翠の瞳にみるみる透明な涙が盛り上がる。
「っ…な、え!?」
途端に情けないくらい真っ青になり、絶句するプロイセンにくるりと背を向け、少女が掠れた声でつぶやく。
「…見るな」
消え入りそうな程に小さな、懇願だった。
「いいから、行けよ!帰れ」
本気の拒絶にプロイセンが立ち竦む。
「………そんなに、俺が嫌いかよ」
あらゆる表情をなくした声で、低くぽつりと呟いたプロイセンの言葉にはじかれたようにハンガリーが振り返る。
「…違っ」
叫びかけて、彼女は目をおとし、ぐっと拳を握りしめた。
「…違う」
ぽたり、と一滴、こぼれた涙が地面に吸い込まれる。
「違うんだ、ごめん。悪かった…だって」
うつむいたまま、消え入るような声で。
「お前、これからは『国』になるんだろ。…俺は…今、こんなだから、」
「………だから、なんだよ」
「もうこんな風に、お前とも……気軽に、喧嘩できなくなるのかもなっ…て」
「…!」
大きく目を見開いて立ちつくすプロイセン。
ハンガリーは、情けね、とちいさく呟いて、子供のような仕種でぐしゅっと鼻をすする。無理やりなにかを吹っ切るようにプロイセンを見上げ、鼻を赤くしたまま、くしゃりと微笑んだ。
「おめでとうギルベルト。――本当はお前なら、いつかやれると思ってた。…俺が、こんな状態なのが、悔しいけどな」
至近距離で咲いた少女の笑顔に、絶句したままプロイセンは、みるみる耳元まで赤くなった。
酸欠のようにぱくぱくと口を動かして喘ぐ。
「だ、おま、…だから、俺は、そうじゃなくておま、おおお」
「…?」
「おま、お前なんか…っ」
「な、なんだよ」
「覚悟しろ馬鹿野郎。そそそそのうち、オーストリアぶっつぶして、その、おま、おま…ぇ………お、俺様のもんに…っ、して、やるんだからなあああっ」
言い終えるや、だああああああと叫びながらマントを靡かせあらぬ方角へ走りだす。
…なんだろうこれは。
一連の流れをテラスから目撃してしまったローデリヒは、思わず遠くをみつめる。
ハンガリーにしろプロイセンにしろ、支配国の自分としては聞き捨てならない台詞ばかり吐いていたようだが、まあそんなものは想定の範囲内。
しかし見ている方が恥ずかしくなるような、あのこそばゆいやりとりは――完全に予想外だった。
なんとも言えない気分になって、ローデリヒが踵を反そうとしたのと、脱兎のごとく駆けていたはずのプロイセンが不意に立ち止まりこちらを鋭く振り向き見上げるのは同時だった。
「――――!!!」
目があった途端、男の顔はみるみる強ばり、刺すような殺気に満ちる。
あまりにも野蛮な、剥き出しの敵意だった。
突然冷水を浴びせられたような心持を得、一瞬立ち尽くしたローデリヒは、素早く目を反らすと、足早にその場を離れた。