静かなる…
感情の読めない表情で男を見詰めていたプロイセンが、唐突に笑い出した。その声は、何とも楽しげだ。男は一瞬、驚いたようにプロイセンを見詰め、それから、その笑い声に釣られるようにして少し嬉しそうに微笑んだ。
プロイセンは玄関口から一歩後ろへと下がった。
「それじゃあ、久しぶりに国の大事に関わって来るか」
軽く会釈してみせれば、男は恭しく頭を下げる。
「どうか、くれぐれもお気を付けて」
夕方過ぎ、東ドイツのニュースが伝えてきた壁際での混乱の映像を目にした瞬間、ドイツは仕事も何も放り出してベルリンへと向かっていた。
高速をぶっ飛ばし、短時間で到着した後は、車を停めてひたすら走った。
メイン通りを走り抜け、フリードリッヒ通り検問所へと辿り着く。ここを西側の者達はチェックポイント・チャーリーと呼んでいたか。
検問所を挟んだ向こう側の喧噪が気になるようで、こちら側にもすでに人々が集まり出していた。
壁の向こうから聞こえてくる、東側の住人たちのざわめき。
幾つかゲートはあるが、半ば無意識にここに来ていた。来るとすれば、ここのような気がしたのだ。このフリードリッヒ通りのゲートに。
やっとここまで来た。思わず、そう呟く。
ゲートは開くだろうか。
ドイツは、ただ静かに西ベルリン側から壁をゲートを見詰める。
壁の向こう側で「開けろ、通せ!」という声が響き始めている。
「西ベルリンに行くだけじゃないか! すぐに戻るのに、なんで通せない!通行可能って言ってただろ!」
期待と不満が爆発寸前に感じられた。危ない、かもしれない。どうか、暴動だけは…避けてくれ。
祈るように、きつく目を瞑る。
騒ぎは大きくなっていく。
ゲートは、開かれるだろうか。
誰もが、口を揃えて、東西の分断が終わるには百年は掛かる。気長に行くしかない。そう言ってきた。
しかし、ドイツは無理と言われても百年も待つ気は無かった。
そんな長い時間、待てる訳が無かった。国である自分たちにとって、百年など長いとは言えないのだろうが、ドイツを守るためにその存在を歴史の闇に埋めた兄を、このような形で狭い国土に百年も閉じ込めておく気など始めから無かった。
必ず取り戻すと、別たれたあの時から心に誓ってきた。
この四十年余り、形振り構わずに突っ走って来たのだ。
約束通り、決して武力行使に出ることなく、国を立て直して経済力を高め治安を回復させ、三十年足らずで再び大国へと返り咲いたドイツを、周辺の者達は「奇跡の復活」と褒め称え、そしてその大国故の力を再び恐れもした。
しかし、ドイツは絶対に武力に頼らず、あくまでも正攻法でここまで来た。
水面下で東ドイツと接触を図り、経済支援を行い、その不満をフランスなどが言ってくれば東ドイツの分も支払った。
正面からロシアに抵抗を示し、半ば西側寄りの、オーストリア寄りの立ち位置を獲得してみせたハンガリーに経済支援を約束することで、東ドイツの国民の大量の亡命を成功させた。
全て水面下で行ってきた。
ドイツ一人では無理だったが、英雄譚の好きなアメリカがこれもまた水面下でかなり動いてくれたのも大きい。
後で何を請求されるか、少々恐ろしいが。
東からの亡命者は今も続いている。
真綿で首を絞めるように、東側の上司に気付かれることなく、じわじわと追い詰め、国力を削いでいく。それは、ゆっくりと分からないように血を流させているようなものだった。
このゆっくりと流れ続け、気付いた時には大量出血となっているだろうこの現象が、今は東ドイツにいる兄・プロイセンへの影響として出ないとも限らなかった。もしかしたら、苦しい思いをさせているかも知れないと、恐ろしくなることすらあった。
それでも、プロイセンは大丈夫だと自分に言い聞かせてここまで来た。
彼は、東ドイツにいるが、国を完全には背負っていない。東ドイツはあくまでもドイツの一部だという認識を崩さずにいたはずだ。
ドイツが決して「東ドイツ」という名前を認めず、外国と見なさず、ドイツは一つだと言い続けてきたことは、プロイセンにも伝わっているはずだ。そうだと、信じるしかなかった。
全ての負担はドイツに来るのであって、プロイセンには行かない。
そう信じるしかなかった。
しかし、そうなれば、プロイセンはなぜ国として存在し続けられる。
国として存在しないのであれば、プロイセンは国の具現化という姿を維持出来ないのじゃないか、そう指摘されたことも一度や二度ではない。
彼から再び「国」を奪えば、今度こそ、彼の存在は危うくなるのでは…と。考えた事がないはずがない。
それでも、先の大戦の終わりに言われた言葉を信じ続けて来た。
オーストリアやバイエルンがプロイセンの特異性について、ドイツに語った言葉を。
幸か不幸か、プロイセンをこの地上に存在させ続けているのは、ドイツの意志、執着によるものだと。
「プロイセン王国解体指令」が出される以前から、すでにプロイセンという国はドイツ帝国に溶け込み、飲み込まれていた。解体も何も、国という形すらプロイセンは遙か以前に失っていたのだと。
消えるならば、WW1敗戦後のドイツ帝国分解時に消えている。それでも、プロイセンはプロイセンとして存在し続けた。
『人の思いは何よりも強いと言われるだろう。望まれる限り人は存在し続ける。お前が望む限り、あの男は、呪いのように存在し続けるだろうな』
呪いのように…。
それは、彼を存在を望み続けることが、呪いのように彼を地上に縛り続けるということなのか。
それでも、今は兄を諦めることなど、無理だった。
それがとてつもないエゴだと言われても、諦められる訳が無かった。切り捨てるなど絶対に無理な話しだった。
「どうか、無事でいてくれ…」
両の手を握りしめ、ドイツは日が暮れていく中で壁を見詰め続けていた。
風が冷たさを増していく。それでも、ドイツはその場から動かなかった。
深夜に近い時刻になった頃、壁の向こう側でひどく懐かしい声を聞き取った。
「ゲートを開けるから、暴れるなよ! おい、ゲートを開けろ!構わないから通せ!」
そう叫ぶ声をドイツの耳はしっかりと拾っていた。
目を凝らし、向こう側のゲートの監視小屋へと目を向ければ、そこの屋根に登っている馴染み深い銀髪の頭を見付ける。
「兄…さん?」
半ば呆然と呟く。あんな所に出てくるとは思いもしなかったのだから、驚くのも当然だった。
「さっさとゲートを開け。暴動だけは起こさせるな!」
声はそういっていた。きっと、ドイツにしか聞き取れていない声。
周囲は喧噪に巻かれて何も聞こえてはいないだろう。
警備を任された軍人たちが戸惑った返答をしたのだろうか、「プロイセンの許可を得て開けたと、後で文句言われたらそう言っておけ。責任くらいとってやるよ」そんな偉そうな言葉が聞こえる。
相変わらずな物言いに、ドイツは思わず苦笑いを浮かべてしまった。
全ては、あっという間の出来事のようだった。
気付けば、プロイセンはすでにその場所から姿を消していた。
それから、程なくして、ゲートは開かれた。