静かなる…
始めは、一人一人チェックをして通していたが、あまりの数に完全にゲートを解放してしまったようだった。
どっと東ベルリンから市民たちが西ベルリンへと雪崩れ込んでくる。
「開…いた…」
西側でも歓声が上がった。
別のゲートもすでに開かれたと、情報が伝わってくる。
開いた。ゲートが、全てのゲートが開かれた。
後はもう、お祭り騒ぎどころじゃなかった。
誰彼構わずに抱きしめ合って踊り狂っていた。
そんな様子を見詰めたまま、ドイツはしばらくの間、動けなかった。この日を待ち望んできたはずなのに、涙も出ない。頭が真っ白になった感じだった。
どこからとも無く音楽が聞こえて来ることに気付く。その音色に引かれ、音の発生源を探し辺りを見渡せば、壁の側でチェロを奏でる男がいた。その周囲に楽器を持った人々が集まって来ている。
奏でられる音楽は、ベートーヴェンの交響曲第九番。
その音色に強張っていた体から力が抜けていくのが分かった。
「壁を、国境を、崩せた…」
やっとだ。やっと、再統一への突破口を作れた。一世紀どころか、半世紀も掛からずして、再統一へと繋がる突破口を作ったのだ。
膝がガクガクと笑っている。
考えてみれば、自分はここで何時間、こうして立ったままだったのか。
動こうとして、よろける。そのまま両膝から崩れるようにして座り込んだ。
いっそ子供のように泣けたら良かったのに、とそんなことを思う冷静な思考を意識しながらも、ドイツは座り込んだまま動けないでいた。
「ヴェスト!」
ゲートから出てきたプロイセンが愉快そうに駆け寄ってくるのが見えたが、ドイツは立ち上がることも出来なかった。
「やりやがったな。色々と無茶しまくりやがって」
懐かしいプロイセンの高笑いが聞こえる。
どっちが無茶をしているんだ、と思うが声が出て来ない。
頭がじんじんと痺れていくようだった。意識が遠退きそうだ。半ば呆然と見上げれば、当然ながらプロイセンがいた。
「兄さん…」
「おい、お前大丈夫か? 何か反応しろよ」
後ろに撫で付けた髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き乱される。
「兄さん」
「おー。お前のお兄様だぜ」
「兄…さん」
「ぐあぁぁぁぁ! お前、ちょっと、力加減ってものを…!!」
衝動のままにプロイセンを抱き寄せ、そして抱きしめた。力任せに。
悲鳴が聞こえたが、そんなことに気遣ってる余裕などない。
「ヴェスト! マジで俺様の小鳥のような体が、折れる! 折れるって!」
バシバシと頭やら背中やらを叩かれたが、構わずに抱きしめ続けた。というか、力の抜き方が分からなくなっていた。
「ヴェスト…、マジで勘弁、しろって…」
「兄さん…!」
プロイセンの苦情を聞き流したまま、ドイツは腕の中の存在に縋り付いた。
「ずっと…」
「…あ?」
「この四十年、多くのプロイセン出身という人々に会ってきた…」
「へぇ…」
何を言い出してるんだ? と思いつつも、プロイセンは必死に少しでも楽になろうとドイツの腕の中で藻掻いている。
「戦後からの始めの二十年くらいは、あなたの名前を口にすることも出来ない状態だった」
「だ、だろう…な。っつうか、ホントに、ヴェスト、力を抜けって!」
「それが、後半の二十年に入ってくると、多くの国民たちが、全てでは無いけれど、多くの者達があなたの名前を口にし始めた」
「あー。こっち側でも、そういう現象起きてたわ。民族性まで否定された気分に陥った時に、縋るものが、欲しかった、だけだろ」
言いながら、抱き締めてくるドイツの腕から逃れようと藻掻き続けるが、やはりびくともしない。 こんな状況で、現在の力の差を思い知らされる。自然、自嘲的な笑いが零れる。
「始めに、その動きは東ベルリンで起こったんだ。それが、いつしか西ベルリンにも広がってきた。この街の者達は、特に、あなたへの思いが強い」
「それは、嬉しいね…」
返答も段々となおざりになっているが、ドイツは構わずに話し続けていた。
「俺はプロイセン軍人を名乗る者、プロイセン生まれだと言う者たちに会って話を聞いてきた。人間たちの目から見たあなたというものを俺は知らないと気付いて」
「また暇なことを…」
「皆、ドイツという国を語るのに、俺ではなく俺の後ろにいるプロイセンを見詰めながら話すんだ。誰もが、俺の後ろにあなたの影を、見付けるんだ」
プロイセンはドイツの腕から抜け出そうと藻掻くのを止めた。そして、ゆっくりと自分で乱してやったドイツの髪の毛を指先で梳いた。
「俺の名前が重いか、ヴェスト?」
その言葉に、ふとドイツの腕から力が抜ける。その隙に、締め付けから抜け出すことに成功したプロイセンは、本当に痛そうに腰をさする。
「あなたの名前が、重い? まさか」
やっと正気に戻ったかのような声だった。今までのどこかぼんやりしたものではなく、はっきりとした力強い声。
「あんたの一人や二人、抱え込んでも俺は何ともない。それだけの力を付けてここまで来たんだ」
「俺は一人しかいねぇよ」
どうでも良い突っ込みを入れてしまった。
ドイツは今更にプロイセンの頬に触れ、じっとその顔を見詰める。
「兄さんは…」
「うん?」
「その、……」
消滅を、解放されたいと望んだことは無いのか、などという言葉は喉元につかえて出てくることは無かった。
「どうした、ヴェスト?」
「すまない、兄さん…」
それでも、今はまだ、この手を離せないでいる。
ずっと戦いの最前線を駆け抜けた人だ。これからは、少しくらい楽しく過ごす時間があってもいいのではないのか。
いや、それを望んでいるのはドイツ自身だろう。そうあって欲しいと、プロイセンが存在する理由をこじつけているだけなのだ。これこそ、ただのエゴというやつかもしれない。それでも、どうか。
どうか、今しばらく、この我が儘に付き合って欲しい。
祈るように、ドイツはプロイセンの手を握ったまま顔を俯けた。
「何を謝ってんだよ。意味分かんねぇぞ。って、泣いてんのか?」
「兄さん…!」
「だから、抱き付くのは止せ!」
反射的に再び抱きしめに掛かったドイツの顔を押さえて止めてしまった。物凄く恨めしい顔で睨まれた。
その背後で、人集りが割れていくことに気付く。誰かがこちらに向かって走ってきているようだった。
それは、ひどく懐かしく感じる声で自分の名を呼んでいた。
「ドイツー! プロイセンもいたー! 兄ちゃん!いたよ! こっちだよ!」
脳天気な声が広場に響き渡る。しかし、そのほとんどが喧噪に掻き消されていく。
「おお! イタリアちゃん! 久しぶりー」
プロイセンはドイツから手を離すと、駆け寄ってきたイタリアに抱き付こうとしたが、華麗なステップで回避されてしまう。
「ええええ? イタリアちゃん、それはあんまりだぜ」
「ドイツー! 無事で良かった! 俺、ベルリンの騒動をテレビで見て飛んで来たんだよ! そしたらね、高速の入り口で兄ちゃん達と会ったんだ! みんなびっくりして集まって来ちゃったんだよ!」
イタリアはまだ座り込んだままのドイツに飛び付きながら、口早に喋りまくった。プロイセンの抗議など黙殺も良いところだった。