イトシゴよ
やがて天下に王手がかかろうかというその時に、ひとつの異物が豊臣軍に紛れこんできた。
勿論、戦略上の必要性があって取り込んだのだ。殲滅するにはこちらも相応の傷を覚悟しなければならない軍、三河の徳川勢が和睦を選んだことは豊臣の望みに適うことでもあった。
だが戦場で幾度か競り合ったことのある、その一軍の将を思い描き、
アレは、豊臣にはそぐわぬなァ。
大谷は内心でそう断じた。降るように仕向けた側でありながら、そのことに不幸の兆しを感じ取り、大谷は薄らとほくそ笑んだ。それが一体誰の不幸となるかまでは思い至らなかった。
そして和睦を結び、従軍として迎え入れた後に改めて顔を合わせた際の事だ。
徳川の主は、精悍な顔立ちと鍛えぬいた肉体を持ち、健全な魂を宿した男だった。
事前にそうと知っていながら、あまりに溌剌とした様子を目の当たりにして拍子抜けする。内心忸怩たる思いを抱えていよう、と推測した大谷の薄暗い哀れみなど吹き飛ばす勢いで、三河の将であった男は大谷を見ると満面の笑みを浮かべた。
「徳川家康だ。今まで貴公には散々苦しめられたものだが、今となればこれほど心強いものはない!以後宜しく頼む、大谷刑部」
そう言って、何の躊躇もなく大きな掌を差し出した。
他者と触れあうなど考えていないことが、一見してわかるであろう大谷に対して、それがどうしたと言いたげに。その姿勢が周囲に与える影響をわかった上で、己の度量の広さを誇示するためにしているのであれば納得もできた。だが男の清冽な眼には何の計算も含みもなく、ただ心から、大谷をあるがままに受け入れているのだと知れた。
―――さもありなん。そうよな、ぬしはそういう輩よ。
大谷は一瞬でそうと悟った。
反吐が出るほどキヨラカよ、な。
勿論、手は握り返さなかった。それでも家康は何ら気にせず笑みを浮かべたままだった。
ふつりと大谷の中で何かが凝り固まった。
しばらくすると、面白い見世物が見られるようになった。
大谷ははじめ、あの二人こそ特に反目しあうであろうと思っていた。健全に過ぎる徳川に対して、三成の歪さは際立っているからだ。だが、その三成の何を気に入ったものか、徳川が時間を見つけては三成を捕まえて益体もないことを言うようになった。大谷は脇で聞いていては無駄なことをと嘲笑っている。
たとえば鳥の囀りを聞いてうつくしいと言う。
吹き抜ける風に眼を細めて良い風だ、と囁く。
清流の水面を覗いて小魚の一群に童のように笑う。
自らの軍勢の部下に囲まれ食事を摂り、幸せだと語る。
その総てを三成と共有しようとしては、それに何の意味も感じえない三成に振りはらわれている男を見るのは、大層小気味よく、面白かった。
さらに愚かしいことに、徳川はいつしか三成の存在意義にすら口出しをし始めたのだ。
覇王にすべてを捧げる三成に対し、徳川が語るのはある種の正道である。大谷にもそれに一理あることはわかる。絆、などというものに興味は湧かぬが、この理想に踊らされ、賛同する者は多いであろうと理解はできた。
だが三成には他者の目線に立って考えるような思考は存在しないのだ。
当然、徳川の意見を単純に秀吉を否定するものと断じて牙を剥き、今は味方でありながら時に刀に手をかけようとさえする。
大谷はそういう場面に出くわせばそのたびに、三成、と名を呼んで抑制した。そしてちらりと、複雑な顔をして佇む男の煩悶を盗み見てはくつりと哂った。
三成に何かの同意を得ようなどと、何の意味もないこと。無駄なことよ。
ああ三成、ぬしはまことによき不幸の種。
その頑なさでこの、世にある総てに祝福されたような男にまで懊悩を植え付ける!
陽の光すら無意味な空虚があると思い知れ、と。
大谷は散々に無駄を繰り返す徳川を嘲り、満足していた。
だから、水面下でひそやかに育まれた変化に、それが露わになるまで気付かなかった。
その時、大谷は常と同じく三成と共に戦場に立ち、朱に染まった地にて戦の終息を迎えた。大谷は見るともなしに男の動きを見ている。落ちる日を背景に、刃についた血糊を拭っていた三成が、ふと何かに気付いたように顔をあげた。
「……ああ、」
眼を細めた。銀糸の髪が茜色に染められながら、吹き抜ける風にはらりと舞う。
「良い風だ……」
大谷の全身を戦慄が走った。それはあってはならないことだったのだ。
この男が、たかが一陣の風を愛でるような口をきくなどと。
些細な、そして異様な事態に声も失って動揺した大谷の脳裏で、天陽のような男がわらう。
(三成、な、……良い風だろう?)
アレは三成まで、変容させるというのか。
大谷は、そうと悟ったこの瞬間にこそあの男を心の底から嫌悪した。それは初めて出会った際に凝り固まった何かが芽吹いた瞬間でもあった。自分が密かに囲っていた不幸の種が、やすやすと横から奪われるのは我慢しがたい。大谷は己の中でちりちりと燃え始めた憎しみを、そう理由づけた。
だが頭の片隅でちらついているのは、ただひとつの光景だった。大谷はそれを無意識に見ないものとしたのだ。知ってしまえば耐えがたい事実であったがために。
大谷の布で覆った身体にいつものように何の気負いもなく手を伸ばそうとして、ふと三成がまじまじと大谷を見つめる。
そして、なぜ今まで気付かなかったのかとでもいうような、いっそ無邪気な顔で言うのだ。
「刑部、貴様はそんなにも――――」
みにくかったのか。
ただひとつの恐れを憎しみへと昇華させ、世のすべてを呪った男は初めてただ一人の存在を呪った。
呪われてあれ、光よ。