Dog_Fight
ボッシュは階段の下段に足をかけると、今度は走る速度で、リュウを追いはじめた。
高さがつのるほど、がらんどうの空間では、下からの風が吹きあげて、手すりのない階段を駆けのぼるリュウを揺さぶる。
足元からコンクリートの破片がカラカラと崩れて、中央の空洞を落下する音も、天井が近づくとやがて聞こえなくなった。
四角い壁にそって、几帳面に7度ぐるぐると駆け上がり、リュウはようやく天井に開いた、四角い穴から、上へと抜け出した。
ボッシュは、一階下にまでせまってきていた。
建物の天井の穴から飛び出したリュウは、屋上の中央まで走り出して、そこで振り返り、剣を構えて待った。
12:00
屋上に開けられた、人ひとり分が通れる大きさの四角い穴に足をかけて、ボッシュがゆっくりと姿を現した。
狭い穴を抜けて上がってきた風が、うすい色の細い髪をわずかに揺らす。
この場所、あの夜に向かい合った屋上で、リュウとボッシュは、剣を構えたまま、対峙していた。
リュウは、あの日のシミュレーションを思い起こしていた。
あのとき、リュウは、ここで力尽きて倒れ、ボッシュが剣をつきつけたのだ。
(どんな気分だ、リュウ?)
もう、記憶は、役に立たない。
この先のシナリオは、無かった。
「ひざまずけよ、リュウ。」
ボッシュは、面白そうに、口にした。
「むしろ、お前はよくやったよ。
けど、ハンデはここまでだ。
もう遠慮、しないぜ?」
「俺も、しない。」
「はぁ? 何言ってる?
わかってないな。
お前がそんな口きける立場かよ?」
「きけるさ。ここで、俺とやり合いたかったんだろ、ボッシュ。」
「は……?」
「お前は俺とやり合いたかった。
でなきゃ、こんな私闘にお前が出てくるわけがない。」
「調子に乗るんじゃない。いい加減に分をわきまえろよ。」
「…試したかったんだろ、俺を。
だから、俺は、剣を捨てない。目もそらさない。
お前には、屈しない。」
ボッシュが浮かべていた笑顔が消えた。
光を通す髪の一本一本が、浮き上がるように揺れた。
「ここまで、馬鹿とはね…。」
瞬時に、ボッシュが動いた。
リュウは、右に動きつつ、左腕を目の前に振りかざす。
だが、ボッシュの剣は、予想した速度を、上回っていた。
ガシン、という金属音と、肩口まで伝わる衝撃が同時にやってきた。
完全にはよけきれず、振りあげた左腕に断ち切られるような激痛を得て、リュウは眉をしかめ、右手の剣を握りしめる。
左腕が一瞬力を失ってだらりとたれ下がり、短い鉄骨が袖口から、下へと落ちた。
さっき階段の脇で見つけて、左袖に隠しておいたものだ。
リュウだって、こんなところで、命や腕を落としたくはない。
「ふん。次は、その右腕にも何か隠してるとか?」
「いや、もうない。」
「じゃあな。」
「ちゃんと胴体を狙えよ、ボッシュ!!」
言うなり、リュウは動いた。ボッシュは、もう小手先の技を使わず、まっすぐに剣を振り上げて、全力の一太刀で斬り込んできた。
リュウは、落とした鉄骨を左手で拾い上げて、左腕にそわせて持ち、それを盾にして相手の切っ先をそらそうとしたが、もう、間に合わなかった。
鉄骨は斜めにそがれ、右にそらされ勢いの流れた剣を、ボッシュは手首を返して向きを変え、そのままリュウのほうへと戻した。
重い鋼鉄の刀身が、リュウの腹を薙ぐ。
ふしぎと、痛みはなかった。
あれだけ、見えなかったボッシュの動きが、いまはもう、止まっているかのように、ゆっくりになった。
いまのリュウの目には、すべてがスローモーションのように、見えていた。
剣を振りぬいたボッシュのすっきりと伸びた腕。
目を焼く天井のまぶしいライト。
壁に映し出された「05:00」の残り時間。
下から仰ぎ見る、ボッシュの顔が、ゆっくりと遠ざかる。
それが、なぜかとても寂しそうに見えた。
腹をもっていかれて、床に沈みながらも、
リュウは思った。
置いて、いけない。
意識を手放しそうになり、その誘惑を振りほどく。
リュウは、もう一度、既視感を味わった。
それは鮮烈な記憶だった。
誰かが、リュウの背後から、手を添えてくれている。
見えない暖かい手で、後ろからリュウの腕に触れながら、耳元で、誰かがこう言っていた。
(お前は、わかっていない。
これは、お前自身の剣と力なのだよ、リュウ。
私はその使い方を、教えただけだ。
己を知るのだな。
そうすれば、その力は、お前に従うだろう。)
最初の夜に、ゼノが伝えたかったことが、ようやくリュウに届く。
リュウは、左手を右手に添えて、近づいてくる地面に、渾身の力を込めて、手にした剣を、つきたてた。
地面とリュウがつながったかのような、あの瞬間が蘇る。
もう、力から逃げることをせずに、リュウは全身をそれにぶつけ、その身をゆだねた。
リュウの内部にあるものすべてが、床に向けた剣の先の一点にむかって解放され、無限に広がってゆく。
リュウの力と剣が一体となり、切っ先が歓喜に燃えた。
リュウの力を受けとめたコンクリートの床は、淡い光を吐き出して、まるで薄氷のように一気に割れた。
大きな亀裂が閃光とともにボッシュに向かって走り、その足元の土台を奪う。
うすいコンクリートでできた屋上の床は砕け、そこにできた暗い穴がボッシュを飲み込もうとした。
コンクリートに深く剣を挿し込み、そのまま倒れこんだリュウの目の前を、バランスをうしない、亀裂に吸い込まれていくボッシュの腕が横切った。
リュウは剣を捨てて、ボッシュが落ちこんだ穴の方へにじりより、なんとかその服を掴んだ。
ボッシュは、亀裂のふちに左手をかけ、くだけた穴にぶら下がっていた。
裂けた穴の底には、15メートル下にあるこの建物の土台がうっすらと見える。
吹き上げる風が、ボッシュの体を揺らす。
リュウは、ボッシュの服を握り締めながら、なんとか腰のベルトに右手をかけ、その体を少しずつ上へと引っ張り上げた。
ぶら下がっていた右腕が亀裂のふちに届くと、ボッシュは腕をてこにして、自分の身を引き上げた。
それは、リュウが両手でボッシュの腰のベルトを握ってひきあげようとしていた、ちょうどそのときだった。
急に軽くなった反動で、リュウはボッシュの腰を抱いたまま、勢いづいて後ろに倒れこんだ。
仰向けになったその上にボッシュの体がおおいかぶさり、リュウは、ボッシュの重みと、動悸とを感じとる。
リュウの上に乗ったボッシュが、左の手のひらをリュウの胸の上に置いた。
「降参、しろよ?」
抱きとめていたボッシュがリュウの胸の上に左手をつき、上半身を起こして、上からリュウを見下ろしている。
ボッシュの右手に握られた剣は一度も離されることはなく、いま、横たわったリュウの喉の左側にあった。
リュウ自身の剣は、さっき走りよるときに捨ててしまって、どこかに転がったままだ。
腹の傷の上に乗られ、息を切らせたリュウの胸の動きが上下して、ボッシュの髪がふわりと揺れる。
はっ、はっと短く息を吐きながら、リュウは微笑んだ。
「いま、どんな気分か、聞かないのか、ボッシュ?」
「どんな気分だ?」
「本気でやりあえて、
――最高に、楽しかった …!!」
リュウの胸の上にかかっていた重みが、ふっ、と軽くなった。