Dog_Fight
武器保管所で預けていた自分の剣を受け取ると、ロッカールームで着替えをすませ、リュウは早足で、レンジャー基地を出ようとした。
ロッカールームの出口で、リュウの姿を見かけたらしいターニャが、基地の扉を出るときに、後ろからにぎやかについてきた。
けれども、基地の扉を出て、玄関前の階段の踊り場のところで、足を止めたリュウの背中にぶつかりそうになる。
あわてて抗議しようとして、ターニャは息を止めた。
リュウの見ているものが、彼女にも見えたのだ。
基地の玄関前の階段下にある広場を囲う金属の壁に、朝にはなかった大きな落書きが書かれていた。
赤いペンキで書かれた一文字一文字は、人の背丈よりも大きいので、最初は全体が意味のあるまとまりにはとれなかった。
文字の途中でペンキが足りなくなったのか、殴り書きされた赤い大きな字は、あちこちささくれ立ったように見える。
文字の曲がったところから下に流れた赤いペンキが、まだ乾ききらないようにぬめっている。
壁全体を見わたして、今度こそ、ターニャにもはっきりと読めた。
壁に真紅のペンキで大きく書かれているのは、”8192” という数字だった。
「…うん、それで?」
かろうじて床の見えそうなスペースを探し出し、読み捨てられたディスクケースを押しのけて、そこから現れた裏返しになったアルコール飲料のケースの上に腰を下ろすと、リュウは、ずらりと並んだ同僚たちに口を開いた。
下層街の路地にある酒場の地下、両手を広げると左右の壁に届くほどのはばの急な階段を下ったところに、マックスが本物の兄弟と同居している部屋がある。
パイプがむき出しの天井だけはやけに高いけれど、部屋自体は新入りサードレンジャー十数人が座りきるにはせますぎる。
壁のコンクリートに窮屈にもたれているものや、玄関のドアを開け放し、その外側にある地上へと続く階段の下段に腰をかけているものもいる。
テーブルの上に広げられた夜食の包みの残骸が、マックス兄弟の貧弱な食生活を表していたが、それはここにいる面々にはどれもおなじみのメニューだった。
大柄なマックスがうつむいたまま、所在なげに手を伸ばし、だらしなく四方へ開いた包みを押しのけた。
赤みの強すぎる明かりに照らされて、とび色の眼をさらに赤くしたターニャが、そんなマックスのわきばらをつつきあげた。
「わかったよ。…リュウ、遅れてわるかったけど、いまから全部話すから。
最初は、ハントと俺だけの、ちょっとしたトラブルだったんだ。
でも、もう、ここにいる全員の問題になっちまった。
なんでこんなことに、なっちまったんだか…」
リュウは、覚醒飲料の入ったマグを片手に、マックスの話を、黙って待った。
任務の途中らしい制服姿の者も、台所のスツールに腰掛けて、勝手に飲料水を飲んでいる者も、耳だけはしっかりとこちらへ向けている。
「…知ってるだろ? この上でやってる、ナゲット・レースが発端なんだよ。
最初と2回目の給料は、借金返すのに消えちまって、
だから3回目の給料はまず増やそう、って、こいつと組んで、ナゲット・レースにつっこんだんだよ。」
この部屋の上にある酒場で働くマックスの兄ピートが、食用ディク同士を闘わせる試合のダフ屋をやっていることは、ここにいる全員が知っている公然の秘密だった。
「兄貴のピートに頼んで、当然、うその名前でこっそり参加したんだけど、馬鹿勝ちしちゃってさ…、」
マックスは、そのときの興奮を思い出したかのように、大きく両手を広げようとし、右側にいたハントの頬に手の甲をぶつける。
「…勝ちに勝って、ほかの奴らが全部降りて、賭けにならないから、
ピートの提案で、最後に残った相手と、直に勝負をやることになったんだ。
で、こいつが」 と、マックスは、その右手で傍らのハントの後頭部をはたいた。
気の弱いハントは、それだけですくみあがる有様だ。
「実際にはありもしない大金を賭けようと言い出したんだ。
”どうせ、相手は俺たちの素性も知らないし、元手があるかなんて、わかりゃしない、要は勝てばいいんだから”なんて言い出して、
あんまりつきまくってたから、兄貴も俺もそいつに乗っちまった。」
「だ、だって、ほんとに、勝ったんだから…。」と、消えそうな声で、ハントが付け足した。
「そう、勝っちまったんだよ。俺たちは、元金のない賭けをもちかけて、相手から大金を巻き上げたんだ。
兄貴も、そりゃもう、大喜びさ。そこまでは、よかったんだ…。」
「ばれたの?」
「そう、しかもその相手だよ。」
パトロールの途中で抜け出してきたらしく、ゴーグルを頭の上に乱暴に引き上げ、乱れた髪のままのジョンが、横から口を出した。
「誰だったんだ?」
「…ファーストだったんだと。ファーストの1人をいかさまで巻き上げたんだぜ、よりにもよって!」
普段から辛口のジョンにまくしたてられて、マックスとハントは、気の毒になるほど、小さくなっている。
「嘘がばれ、素性がばれて、2人とも囲まれたけど、勿論謝っても許してくれる相手じゃなかった。
それで、ターニャが、ここにいるみんなに相談したんだ。
サードの新入りのみんなで、謝ります、この2人、なんとかします、って、ターニャが割って入った。
そうでなきゃ、こいつら、ほんとに危なかった。」
「その話で、みんな集まってたのか。」
マックスが、深くうなずく。
「――そう、それで、本題はこれからなんだ、リュウ。
あいつら、ファーストの奴ら、じゃあもう一度って、勝負を持ちかけてきた。
今度はディクじゃなく、サードから誰かと、ファーストから誰かを選んで、闘わせよう、って。
あいつら、サードが、ファーストに勝てるはずないこと、わかってて…。」
全員の目が、リュウの上に注がれる。
ふう、とリュウは、息を吐いた。
「なるほど。それで、あの伝言か。」
全員が、無言のまま、うつむいた。
「どうして、リュウが? って、あいつらに掛け合うよ。確かにこの中じゃ、腕は一番だけど、リュウは全然しらなかったんだ。
元はといえば、悪いのはこいつらだしな!」
ジョンの威勢のいい口調に、マックスは硬くなり、ハントの顔色は、すっかり変わってしまっている。
「でも、向こうから、俺を指名してきたんだろ? あの、壁に書いた数字で。」
「リュウ…すまない…こんなことになって…なんて言えばいいのか…。」
体が大きくて、普段は陽気なマックスが、やせっぽちのハントと同じくらいのサイズに縮こまっている。
リュウは、きっぱりと、言った。
「うん、俺がその場にいても、ターニャに賛成したと思う。」
不安そうに見つめるハントに微笑みかけて、リュウは続けた。
「それに、この中の誰かが出なきゃならないんだろ。
そんなに構えなくても、ファーストとの練習試合くらいに思えばいいんじゃない?」
「リュウ、いいのか…?」
ずっと目をそらしていたハントが、ようやくリュウと目を合わせた。
「でも、リュウ。これは、私闘だよ。
降参しない限り、相手が倒れるまでやりあうんだ、昔からのルール、これは”ドッグ・ファイト”だ、って、言ってた。」
誰もが、この中では一番、リュウの腕が勝っていることを、知っていた。