胸のうち
にもかかわらず、その淡い色を眺めているだけで、イギリスの心にはどこか郷愁にも似た懐かしさと切なさがこみ上げてくるのだった。
心臓が縮こまってきゅう、と痛む。
このところ、フランスの気が別の方向に削がれているせいか、殴り合いの喧嘩もしなくなって久しい。フランスはイギリスの沸点を熟知しているので、喧嘩がしたいからといって、いきなりなんでもないところで突っかかっていくわけにもいかない。フランスの言葉に過剰反応して殴りかかったりすれば、もうずっとひた隠しにしている“イギリスの中の異変”に勘付かれかねないからだ。
自分が抱えている類の感情を考えれば、それを隠し続けるために慎重になってなりすぎるということはない。半年喧嘩がないことに自分が寂しささえ感じてしまっているということなど、決して知られてはならないのだ。
あの、変なところで鋭い腐れ縁には、決して。
隣国を想っているイギリスと違い、フランスが恋するのはいつも“人間”だ。
だから遅かれ早かれ、フランスはまた、失恋をすることになる。失恋、とはいっても、大抵はフランスが自ら、そうなるように仕向けるのだったが。
そのとき自分たちはきっとまた悲しみを散らすために殴り合い、痣だらけの体を引き摺って、さほどアルコールに弱くないフランスがべろべろになるまで飲み明かすのだ。なんてむなしい繰り返しだろう。
女の代わりにフランスに抱かれたい、とは言わないまでも、せめてもっとマシな慰めができたらいいのに、とイギリスは思う。
今までに、もう何度も繰り返してきた悲しみの儀式。フランスが失恋するたび、イギリスもまた、小さな失恋の痛みを味わう。
フランスが酔ったふりをしてその瞳に涙を滲ませるのを、イギリスはまた近々、見なければならないのだ。
――ちょうどこんな色をしている、瞳を。
つまみ上げたガラスボタンは、今にも涙を零しそうに見えた。
ドクン、と胸が鳴る。静かに吐く息が小さく震えた。
ごく小さなボタン。先ほどまでフランスの胸元を飾っていたであろう、それ。
そう思うと、悲しみと痛みと寂しさがイギリスの胸の中で渦巻いているところへ、ひとしずくの愛しさが落ちた。
じわりと広がる慕情に突き動かされるようにして、イギリスは手にしているボタンを自分の顔に近づけていった。吐いた息で、透明な表面が一瞬白く曇る。
そしてイギリスはまるでその色に魅入られるように指先に唇をよせ、冷たいガラスの涙を吸ったのだった。
唇で触れるにはそのボタンは小さすぎてひどく頼りなかったが、唇の間で挟むようにして、二度、三度と口付ける。
イギリスは全身の感覚を研ぎ澄まし、唇に感じる滑らかさに陶酔した。
口付けるたびに頭はぼんやりと霞み、心は水に浸したかのようにさっぱりとする。
こんな真新しいボタンひとつに、馬鹿みたいに顔を火照らせて必死に口付けている自分をかえりみて、恥じる暇もない。
まるで本当にキスをしているみたいに、ドキドキした。
ああ、胸がいたい。
小さくなった理性が引き止めるのも構わずにイギリスがそろそろと舌を出し、そのガラスに触れようとした、ちょうどそのとき。
開けたままになっていた会議室の扉から、フランスの声が投げ入れられたのである。
イギリスにとって、扉に背を向けていたのが不幸中の幸いだった。
フランスからは、イギリスが今何をしていたか、見えてはいまい。
しかし、突然の声に驚いて、イギリスは手にしていたボタンを隠してしまったのである。
自分の、口の中に。
黙ったままのイギリスの様子を不審がりつつも、フランスはひたすらあたりをきょろきょろとしている。
……これは、もしかして。
「あっれー、おかしいなぁ。ねぇ、このあたりになんか落ちてなかった?」
イギリスの口の中で、ガラスボタンがまたカチ、と小さく鳴った。
もちろんフランスには聞こえていないだろうが、それだけでスーツの下の胸が跳ねる。ボタン自体はとても小さく、その気になれば口に入れたまま喋ることだって可能だっただろうが、万が一のことを思うと、どうしてもイギリスは口を開く気になれなかった。
心の中で落ち着け落ち着け、と唱えながら、「おまえが何をいってるのかすらわからない」という態を装って首を傾げてみせる。嫌味っぽいあきれ顔もプラスした。これならさほど怪しまれまい。
「このシャツのさ、ここについてた水色のボタンなんだけど」
フランスが指差した先、ちょうどフランスのみぞおちあたりには、あるべきボタンが欠けていた。位置から察するに、おおかた机の角ででも引っ掛けたのだろう。
――そしてそれは今、イギリスの口の中にある。
イギリスは黙って、フランスが示す、ボタンのとれた部分をじっと見つめた。規則的に並んでいたはずのそこに不自然な間隔があって、一見しても違和感がある。それを眺めつつ固く口を噤んだまま、イギリスは舌先でそっと口内のボタンを舐めた。ほぼ、無意識に。
舌下で温められていたそれは体温に馴染んでいて、もはや冷たさは感じない。
首を傾げたまま反応しないイギリスをどう思ったのか、フランスは腰をかがめて机の下を見渡し始めた。
その時、ふわりとまた、憎らしい香水が香った。
舌の根元がひくついて、喉が震える。
そしてそのイギリスの舌の上に乗せられた、ガラスのボタン。
フランスの、とろけそうな青いボタン。
やめろ、馬鹿。そんな、非常識なこと。
頭の中で、理性の警告が鳴り響く。
イギリスはそれを壁越しの喧騒のような遠い気持ちで聞きながら、ごくん、と大きくその喉を鳴らした。
「……さぁ、知らないな」
ボタンが消えたあとの口の中は、やけに寂しかった。久しぶりに開けた口には、部屋の空気が少し冷たい。それと入れ替わりで、肺に篭っていた熱い息が静かに漏れる。
「弱ったなぁ、スペアないんだよ、これ」
フランスは会議場の絨毯の上をひとしきり見て回っては、首を傾げていた。あるわけない。もうそれは、イギリスの胃の中に落ちている。
異物が通った喉元には違和感があったが、イギリスはひどく晴れ晴れとした気分だった。先ほどまでの苦い感傷は消え去り、膝をついて探し回るフランスを眺めていると愉快な気持ちにすらなる。フランスはあれでいて、変なところが完璧主義者だ。ボタンをなくした服は二度と着ないことを、イギリスは知っている。元からあった揃い物が、不揃いになることをひどく嫌うからだ。
イギリスが飲み込んだ秘密のせいで、あの美しいシャツはもう二度と、フランスの体を包むことはないのだ。
「……おっかしいなぁ」
「な、なんだよ、どっか他所で落としてきたんじゃねぇの?」
「いや、会議中に落ちたから、後で拾おうと思ってたんだが……」
ちらり、と本当に音が鳴りそうな動きで、フランスの視線がイギリスを捉えた。一気にせりあがってきた心臓が、喉元でバクバクと鳴っている。
真実を知っている胃の中が、焼け付くように熱い。
「……見てないな」
できるだけ不自然にならないように、気をつけて目を逸らす。
「まぁいいんじゃねぇの?そのシャツ、全っ然似合ってねぇし」