珈琲
その翌日、俺は誰もいない学校の中を一人で歩いていた。普段は生徒の笑い声や教師の怒鳴り声、ボールが弾む音やピアノの音色が響いているこの建物は、今は何だかよそよそしさを持って俺を迎えている。
こうして歩いていると、何だか寂しい気分になる。自分が学校の中に閉じ込められてしまったような、そんな気分。
早く出たい。でも、俺は侑士から借りたノートを教室に置いてきてしまった。あれがなければ、次の期末試験の数学はほぼ壊滅的な成績だろう。それは何としても避けなければならない。だから俺はわざわざ帰り道を引き返して、ノートを取りに来たのだ。校門に日吉を待たせている。急がないと。
自分の教室に辿り着き、ドアを開ける。すると、見知った人物が目に入り俺は思わず声を上げた。
「…滝?」
ゆっくりと振り返るその人物は、俺のクラスメートで、部活仲間でもある滝萩之介だった。
「岳人?まだ帰ってなかったの」
「いや、忘れ物して戻ってきただけ…。お前こそまだ帰ってなかったのかよ」
「僕は勉強」
ほら、と滝は机に広がる教科書とノートを俺に見せた。
「テスト前だからねー、頑張らないと」
「テスト前つってもまだ二週間あるだろ…一人居残り勉とか頑張り過ぎじゃね?」
「あはは、部活も引退しちゃったし、言い訳利かないからね」
滝は成績が良い。俺も悪くはないけど、多分滝と競えるのは英語位だと思う。滝は全科目満遍なく良い点数を取ってくる。それはやっぱり、こうやって真面目に勉強しているからなんだろう。素直に尊敬する。真似はしないけど。
自分の机の中をがさがさと漁ると、目的の物はすぐに見つかった。
「岳人も一緒に勉強する?」
くすくすと笑いながら、絶対に乗ってこないと分かる誘いをかける滝。
正直なことを言うと、俺は滝が苦手だった。
何を考えているのかよく分からないし、何より。
「…いや、いい。人待たせてるし」
「…そっか」
一瞬、滝の笑顔が消えたように思えたのは気のせいだろうか。
人。自分でも回りくどい言い方だと思う。テスト前は全学年(今は三年生は引退しているが)部活動は休みになる。それは、テニス部も例外ではなくて。
「じゃあ早く行ってあげないと。こんなに寒い中待たせたら可哀想だよ」
「誰」を待たせているのか。聞かなかったのは滝の優しさだろう。
こんな寒い中、俺が忘れ物を取ってくるまで待ってくれる奴なんて、この学校で一人しかいない。分かりきった事実を、滝は聞かない。
「じゃあな、勉強頑張れよ」
「岳人もね」
軽い挨拶を交わし、教室を出ようとしたその時。滝の机に置かれたアルミ缶のラベルを見て、俺は足を止めた。
「…それ」
俺の目線に気が付いたのだろう。
「ああ、これ?」
滝が軽く揺らすと、ちゃぷ、と中に残っていた液体が音を立てる。
「別に美味しくはないんだけど、勉強で疲れた時とか頭がすっきりするんだよねー」
くすりと笑って、滝はそれに口を付けた。
珈琲。無糖の、すっごい苦いやつ。
「…岳人?どうかした?」
俺は思っていることが表情に出やすいらしい。多分、今がまさにそうなんだろう。
「いや…お前とおんなじこと言ってる奴いたよ」
「へえ、誰?」
今俺を待ってる奴。
お前の、元彼氏。
…とは流石に言えず、誰だったかは忘れた、などと適当に誤魔化しながら俺は教室を後にした。
また明日、と手を振る滝の綺麗な笑顔が、妙に恨めしかった。