この身を攫え
息せききって駆けつけた先に、黒くてひょろっとした影が見えた。
四つ葉のクローバーを見つけたことのある草原は、長く太子のお気に入りだ。いるならここだと思っていた。普段から、妹子が太子に振り回されて捜しているのもこんな時には役に立つ。
その草原に寝転がったままの太子が、振り向きもせずに「よ、イモ太郎」と腕を振る。
己がやったことに対してまったく触れないまま、それきり口を閉じた太子の傍へ、妹子はつかつかと歩み寄った。その足が寝転がった太子より数歩分うしろで止まる。
「怒っとるかい?」
すると太子が、何気なく聞くものだから、妹子はやはり怒るより先に気が抜けてしまった。
「何なんですかあんた、もう……。大体こんな時間に抜けだして、このあたりだって別に危険がないわけじゃ」
「いまおまえに聞いているのはそういうのじゃないよ、妹子」
珍しく落ち着いた声音で名を呼ばれた。
妹子が眉をひそめた先で、草原に寝たままの男は目蓋を閉じている。普段は覇気もない死んだ魚のような眼が、閉じられるとそれだけで厳粛な雰囲気を醸し出すのだから大したものだ。
妹子はこの男が阿呆で救いようのないことばかり仕出かすと同時に、誰にも思いつかない優れた仕事を容易く成し遂げてみせるのを知っている。悪戯の数よりは果てしなく少ないが、それでも幾度か見たことがある。
そんな時、男はいつもこの静かな雰囲気を纏っていた。
「何で怒らんの、おまえ」
「……怒ってますけど」
「殴らんの?蹴れば?いつもみたいにさ。おまえ、いつだってぼこぼこと遠慮なく殴ってきてたじゃないか。なんで今日はそんななんだよ」
「……それはあんたがいつもと違うからでしょ」
妹子がそう言えば、太子がわらうのがわかった。
「おまえもさすがに呆れはてちゃった?もう私を見放してみるかい?」
聞いた瞬間に、妹子は低い声で語気荒く言った。
「何でそんな話になるんです!」
「妹子、私のものになってよ」
まただ。妹子はぐっと言葉に詰まった。会話をすべて無視して、まったく熱のない声で、この天上の男はそんなことを囁いてみせる。
妹子が男の意志を捉えかねて黙っていると、ねえ、ともう一度、夜風に紛れる小ささで呼びかけられる。妹子は微動だにせず、少し先で伸びている男に視線を落とす。
「私のものになって、」
「……厭ですってば」
「ここにいるのに?」
ここから動かないくせに、と子供がむずかるような口調で言う。
「ここにいるならもう私のものになってもいいじゃない」
そのぽんと投げ出されたような台詞に腹が立つ。一体だれの所為でこんな夜更けに妹子がこんな処へ来たと思っているのだ。
「あのね。僕はあんたの所為で、」
「そうだよ。私の所為だよ」
歌うように言葉を遮られた。
「今日起きたこともこれまで起こったこともこれから起こることも全部私の所為だよ」
思わずじっと見つめた先で、相手は目蓋を閉じたままだ。
「それなのにおまえは逃げないでそんなところにいるもんだから、ついつい私だって勘違いしちゃうよ、じゃなきゃ色々試しちゃうよ。私のものにならないおまえはじゃあそこで何してるの?
傍にいるだけで得られるようなぼんやりしたものじゃあだめだ。意味がないもの。私はそれを受取れないよ。
捧げるものがないのなら私に近づくのは止しなさい」
厳かな声音も、遥か上方から献身をのみ求めるような言葉も、妹子と男の身分が、本当はこんな風に傍にあることなど許さないほどかけ離れているのだと思い知らせるようだった。
ああ、短い付き合いだったな。
妹子はそんなことを思った。思うだけでなく口にした。
「…短い付き合いでしたね」
圧倒的に上から物を言う口ぶりに呆れ果てたという、軽蔑すら含んだような声音。それを耳にして、大きめの呼吸を3回分、間をあけてから太子はずいぶんと満足そうに頷いた。だらしないことこの上ない。目蓋をかっちり閉じたままで、威厳を出そうとしたってかけらも感じてなどやるものか。
立ち尽くしていた足が一歩を踏み出す。
「短い付き合いでしたけど、」
太子の方へ。
一歩、二歩。最後に踏み出した足を、そのまま宙へ振り上げる。
何も見ずに何も見せずにひとりで終わりにしようなどと、虫が良すぎるのだ。
「あんたがいま嘘をついてることくらいはわかってるんですよ残念でしたね!」
断末魔というに相応しい悲鳴が草原に響いた。