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群青

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だが意図的に避けていた部分もあった。頭に浮かぶのは父であった人の晩年の姿だ。病を得て弱り、歩く事がやや困難になっていた。血のあまり通わなくなった彼の足をさすりながら、どうか死なないでと小さく呟いた事に彼は気が付いたかどうか。そのまま彼は眠りに落ち、穏やかな表情のまま二度と目を覚まさなかった。
老いた姿。群島は医療の未発達もあり、寿命が短い。
少し怖かった。人工島の建設の事もあり、ファレナとの交渉事はあまりに時間がかかりすぎていた。十年は軽く過ぎ去っていた。フレアはどう変化しただろうか。彼女だけではない、未だ健在だと……信じ込んでいた、多くの友人達。手紙を折々に送っていた大事な友人。
最後に会ったのはいつだったろうか。十年ではきかない。二十年?いやもっと前?彼らはどう変化したのだろう。
……変化しない姿のままで。どんな顔をして再会していいのか、見当もつかない。
後々から考えればそれは十分逃げだった。逃避、現実から目を背けていた。そんな事するつもりはない、そう自分に言い聞かせながら結局やっている事は同じ。ただ、あちこち見るのが楽しいから帰るのを先に延ばす、そういう建前でふらふらとしていたのだ。
結局はその愚かしさに対する罰が下ったのだろう。左手に宿る紋章はその持ち主にも忠実にその司るところを与えたのかもしれなかった。


群島海域に面した港町で、その噂を聞いた。
もうずいぶん前に聞いた話だと彼らの言葉は続いたのだが、正直ちゃんと耳に入っていなかった。それを思い出したのは目的の場所に到着した後の事だ。
迎え入れてくれたのは、早くに亡くなった父親に変わって祖母の跡を継いだ青年だった。少しだけ祖母に似ているその顔を見るのが今となっては辛かった。
彼らはレザーラに対し何も言わず、一言も責める事もなく、むしろこちらを気遣ってくれた。心配する視線。そして否応にも気付いてしまった、島を出る頃にはそれなりにいたはずの見知った顔が全て消えている事に。
そして手渡されたのは小さな歯車だった。

その歯車が正しく収まるべき小さなオルゴールは、本人の希望で、海へ流される事無く小さな石碑の下に収められたのだという。体は風習にのっとり海へと還されるが、王族はゆかりのある小物や髪一束といったささやかな遺物を地上の墓と呼ばれる場所へ収める風習があった。特殊な立場ゆえ故人を忍ぶ人々も多い、その為の措置だった。
そしてレザーラの手には歯車だけが残されたのだ。
私だけが持って行く訳にはいかない、というのがその理由だったとも聞いた。
その話を聞いて、馬鹿な事をと思った。それは彼女が海の果てまで持って行くべきだった。幼い頃からずっと彼女と共に在った母の形見の品だった。レザーラにしてみれば遺された小さな歯車だけで十分だったし、むしろそれすらも過剰であると左手に宿ったものが告げている気がした。

しかし、もうどうにもならない話だ。

どうにもならない。
オベルの女王が死病で伏せったそうだ、もう長くはないだろう、という噂を聞いて、続く言葉をろくに考えもしないでそのまま船に飛び乗ってしまった。そうして彼女の孫から告げられたのは、あと一ヶ月帰りが早ければという言葉だった。
結局自分は最後まで、愚かで薄情な弟だった。
ただ彼女が遺してくれたものを抱えて、そういえば声を上げて泣いたのは物心がついてから初めてだ、と思った。



あの方はどうしている、と訊ねると、部屋で休んでおられると返事が返ってきた。
さもあろうよ、幼い自分の目から見ても二人は大層仲の良い様子だった。そして彼はとても優しかった。相手が幼子という事もあろうし、己と彼との関係がある意味特別だったという事もある。もはや己の家族を持てない彼にとっては姉の孫は自分の孫も同然と思えたのだろう。それでもその優しさはただ血縁があるものだけに向けられる性質ではない気もした。
優しい人だった。

彼は忙しい。まだ若いが大事な事は全て祖母から伝え教わっていた。事実先が長くないと悟った先代女王は、まだ若い孫に可能な限りの知識を口伝えで残していった。とはいえ知識と実務はまた別だ。そしてもう一つ、そういった政治的な行動や雑務とはまた次元が別の懸念が存在していた。
懸念と言うよりも単純に気がかりと心配に近い。
忙しい最中、せめて数日に一度でも無理矢理時間を作りその人に会いに行く。彼はその部屋で、寝台に横になっていたり(だが決して寝てはいないのだ)、座って外を見ていたり、……とにかく色々な姿勢で縁台越しに広がるささやかな中庭を見ている。
……と最初は思っていたのだが、そのうち違うと気がついた。
風が室内へと吹き込んでくる。彼は風との親和性が高いとかで、時々指先で戯れに風がくるりと緩い渦をまいていた。その風は下の町から吹き上げてくるから、自然と馴染み深い匂いが微かに含まれていた。
群島に生まれた人間で、この匂いを知らない者などいない。
これは海の匂い。潮風の欠片。彼はある意味この島の中で一番海から遠いこの場所で、ささやかに感じる海の欠片を感じたがっているのかもしれなかった。

こんにちは、と声をかけると、縁台に置かれた椅子に座っていた彼は体半分捻って振り返り、久しぶりだね、と微かに目元を細めた。
本当に久しぶりだった。嵐があったのはしばらく前の事だ。それはオベルの領域内では無かったが、不運にも定期航路の途中で数日荒れ狂った。被害に遭ったのは国とも呼べぬ小さな規模の、しかし連合に所属する島々だった。そのため近隣の規模の大きな島や国がその後始末に追われたのだ。オベルもその中の一つだった。
不運にもいくつかの船が難破してしまったらしい。大自然の前人は無力だ。そうして時に牙を剥く海は、しかし彼らに恵みをもたらし生きる土地を繋ぐ世界の全てでもある。遺体の回収や打ち上げられたそれの身元確認も難しく、ただ打ち上げられた彼らを丁重に海へと還し、難破船の確認と船主、乗員の身内への連絡等々。そして幸いにも近い島へ逃げ込めた船の確認など。
一言で言えばてんてこまいだった。彼自身も実際に何度も現地へ出向いた。一ヶ月ほどこの部屋に来なかったろうか。それまでは頻繁に訊ねていたのだから、久しぶりと言われるのも無理のない話だった。
縁台の椅子から立ち上がった部屋の主は、寝台を回り込んで少しぼんやり立ち尽くしている客に歩み寄ってきた。
「嵐の後始末で大変だったようだね。ご苦労様」
「ご存じでしたか。ええ、正直うまくやれたか自信はありませんが、何とか収拾はついたようです」
「何よりだよ。最近は定期便も格段に増えたし、その航路で大規模な嵐が発生したとなると……連絡用の灯台か何かがあると便利かもしれないね」
「相変わらずご慧眼ですね。既にそういう提案も出ています。それと……乗員の一部にオベルの者がいまして」
「伝えたのか」
「人数が少なかったので、私が出向きました。……誰もやりたがらない事です」
「確かにね。お前は昔からその辺強い子だったよ」
ぽつりと呟いて、彼は僅かに首を傾げて視線を投げかけてきた。手の内にある紙束。あまり厚くは無く、油紙で厳重に包まれて紐でくくられていた。
「手紙?」
作品名:群青 作家名:滝井ルト