籠を発つ鳥
『───ごめんね…リィ』
波が過ぎれば、いつもあのひとは僕をうち捨てて部屋を出ていく。
『…いっぱい、怖い思いをさせて。ごめんね』
『───アルフォンス…アルフォンス……っ』
しゃくりあげて僕に手を伸ばす彼女に、そっと首を振る。
『僕なら、大丈夫。……だいぶん、慣れてしまっているから』
『そんな…嘘よっ』
もたもたと乱された衣服を整える僕を、彼女は否定する。
『どうして、ねぇ、どうしてっ!?こんなの、ただの暴力じゃない…っ!』
若いながらも賢君として知られているあのひとが、自分の子供…しかも息子への乱暴を繰り返していたなんて。
信じられないし、彼女だって信じたくなかっただろう。
政務に携わっているときの姿は本当に真摯で、次代の宰相候補として国王も一目置いているのだから。
本当のことを言えば、為政者としてのあのひとを、僕はこんなふうにされるようになってからもずっと尊敬していた。
『もう、だいぶ前からこうなんだ。…ああやって僕を抱きながら、ずっと母を呼んでる』
僕を揺さぶっている間、あのひとが口にするのは母の名前と、彼女への愛だけ。
『どうして、アルフォンスが…?』
『…僕が大きくなってきて、母に似てきたからかな。”どこにもやらない”って、そう言って』
『ひどい…そんなの、アルフォンスの気持ちは、どうなるの……?』
大きな蒼い瞳からこぼれる涙を拭ってやりたくて手を伸ばしたけれど、ふと気づいてそれを止めた。
僕が触れたら、彼女まで汚してしまいそうで、怖かった。
『もしかしたら…僕がそこにいることも、あのひとは理解できていないのかもしれないね』
ねじ伏せられ続ける憎しみだとか、悔しさだとか。
そういう気持ちは、不思議なほどわき上がってこない。
ただひたすらに、僕を呼ばない、あのひとが怖いだけ。
『……母の代わりに、僕がいなくなっていれば…あのひとは、正気でいられたのかな』
自分で自分の存在を否定する。
それが悲しいと思うこともできないままぽつりと呟くと、ぱしんと頬を張られた。
右の頬が、熱と痛みを帯びる。
『ばか、言わないでよ…っ!』
彼女の綺麗な瞳からは、ますます沢山の涙がこぼれていく。
『…たし、あたしは……っ、アルフォンスが、いなきゃ、やだよ…っ』
振り絞るように紡がれた彼女の言葉に、僕はつぶされるような胸の痛みを憶えた。
『侯爵さまが、何を言ったって…何も言ってくれなくたって…あたしも、エドも、アルも…アルフォンスが大事なんだから……!』
『───リィ……っ』
縋るように、彼女に腕を回す。
躊躇いなく抱きしめられて、温かさに涙が出た。
『寂しいよ…悲しいんだ……!』
『アルフォンス…っ』
名前を呼ばれることさえ久しぶりで。
応えてもらえることが、こんなに嬉しいなんて忘れていた。
『助けて、リィ……助けて…』
彼女の腕の中で、僕はあの時以来初めて、声を上げて泣いた。
本当はきっと、身代わりでも何でも良かった。
もう一度、名前を呼んで。
僕がここにいても良いのだと、あのひとに認めて貰いたかったのだ。