夜になると、彼は
2.
「ねえドイツ、大丈夫?」
控えめに囁かれた声は湿っているため、耳にねばっこく張り付いて離れない。
ドイツは彼の言葉を聞き入れないよう、指揮を執るアメリカの声に耳を傾けることに集中した。幸い彼の声は耳に残る甲高い声質であったため、容易に集中することができた。だが、男は変わらず横で、しきりに何か話しかけてくる。会議中に私語は厳禁だと日頃からさんざ言っているのにもかかわらず、この男はまるで学習しない。改めてそのことを認識すると、腹の底から沸々と怒りが湧いてきたため、ドイツはそれを会議に集中することで発散しようと努めた。しかし、視界の隅でちょろちょろと動くショコラ色の髪が気にかかり、どうも会議に集中できなくなってしまう。
「…何だ」
我慢の出来なくなったドイツは、周りに聞こえぬよう小声で彼に語りかけた。すると、先ほどまで眉尻を下げて涙を浮かべていたとは思えないほどの笑顔を、男はドイツに振りまいた。
「ドイツ!ようやくおれのこと見てくれたね!」
「用件を手短に話せ」
「うーん、用件っていうわけじゃないんだけど…」
「そうか。なら会議に集中しろ」
「ひ、ひどいよドイツ…。せっかく人が心配してるのに!」
「…心配?」
やれ暇だのやれ飽きただのという言葉を想像していたため、イタリアの口から出た予想もしない言葉に、ドイツは思わず小首を傾げた。
「そうだよ、おれは心配してるの。なんだか、今日いつもより疲れて見えるから」
「そうか?」
「だって眉間を抑える数がいつもより8回も多かった」
「お前は、貴重な会議の時間をそんな下らんことに…」
友人の呆れた行動に思わず眉間を抑えると、隣で「あ、またやってる」と呟く声が聞こえた。
「…今のは完全にお前のせいだからな」
「……ねえ、お前やっぱり疲れてるよね?だっていつもなら会議中、こんなにおれの話に付き合ってくれることなんてないもの。ドイツ、今日は早めに帰ってゆっくりした方がいいよ。家のことは全部―――に任せてさ」
「? …すまん、もう一度言ってくれ」
話の途中、不意に聞こえたノイズに驚き、ドイツはイタリアの顔をまじまじと見た。イタリアは一瞬きょとんと目を開いたが、すぐにいつも通りの頼りない垂れ目に戻った。
「早めに帰って休んだほうがいいよ、って」
「その後だ」
「家のことは―――に任せて…?」
耳に走るノイズの強さに、ドイツは思わず顔を顰めた。先ほどと同じ状況だ。同じ部分が上手く聞きとれない。額を抑えつつ考え込んでいると、その表情を何か勘違いしたのか、イタリアは顔を青くさせて、あたふたし始めた。上手く音が聞こえないことの苛立ちが、自分を心配するイタリアの気遣いすらも怒りの感情に変えてしまう。それをドイツは肌で感じながらも、彼にきつく当たる自分を止めることができない。
「…お前は、もっとはっきり喋れ。それに家事を…その、『誰か』に任せろだなんて…。俺が一人暮らしなのはお前も知っているだろう」
「? 何言ってるの?」
今度はイタリアが驚く側だった。
「え、だってお前はずっと二人暮らしじゃない」
目を真ん丸に見開いて、イタリアがそう答える。とぼけたような彼のその態度に、ドイツは頬がかっと赤くなるのを感じた。この男は、一体どこまで俺をからかえば気が済むのだろう。
「イタリア、ふざけるのもいい加減に…」
「そこ、いつまでお喋りを続けるつもりだい?」
テーブルを強く叩く音がして、二人は顔を上げた。視線の先には、いつもより鋭い目つきのアメリカが、右手にシェイクを握ったままこちらを見ている。
「いい加減話し合いに参加してもらいたいんだけどな」
「…すまなかった」
シェイクは握りつぶされ、ストローには噛み痕がしっかりと残っている。ドイツは申し訳ない気持ちと、あんな下らないことで感情を露わにした自分を恥ずかしく思う気持ちでいっぱいになり、いつもより速い口調で返事をした。後ろめたさがそうさせたのかもしれない。
「めずらしいね。ドイツが無駄話するなんて」
「こいつ、今日は疲れてるみたいなんだよ」
「そういえば顔色がいつもより悪いなあ。大丈夫かい?」
「ああ、問題ない」
じろりと横目で睨みつけると、ドイツはもうイタリアの方を向かなかった。黙って皆の意見を聞き、異議があれば相手が話し終えるのを待ってから、挙手をして述べる。イタリアはもう喋らなかった。その代わりに、メモの切れ端をドイツによこした。
『ごめんね』。
それだけ書かれていたメモの隅に、ドイツはさらさらと文字を書くと、さっとイタリアの方に紙を滑らせた。それを見た途端、イタリアの表情がぱっと明るくなるのが、見なくてもわかる。ドイツはわざとらしく咳払いをすると、それから会議が終わるまでイタリアを見なかった。彼の方を向けば、きっと嬉しさのあまり笑ってしまうだろうと思ったからである。
イタリアのわかりやすい態度が、つまらぬことで怒りを露わにした自分を許してくれる彼が、その日のドイツには、痛いくらいに嬉しく感じられた。