夜になると、彼は
4.
男がヴルストを茹でている間、ドイツはビール瓶の蓋を開け、ジョッキに注いでいた。今朝の残りのパンに、スライスしたサラミとチーズを乗せ、皿の上に置く。一人で席に着いているのが落ち着かないのでキッチンへ向かったが、お前は黙って待ってろ、と男に押し返されてしまった。それどころか、わざわざ台所まで出向いたドイツを、男はよほど腹を空かせてると思ったのだろう。「先に食ってていいぞ」と言われてしまったドイツは、何とも物悲しい気持ちで椅子に腰を下ろした。バスケットからはみ出たプンパニッケルが、丸まったドイツの背中を黙って見つめている。
――はて。
そこでドイツは首を傾げた。
そういえば、今朝食べたパンだが、俺はいつパン屋へ取りに行ったのだろう。
ドイツは朝の出来事を思い出そうと頭を巡らせたが、自分が買いに出かけた記憶が全くない。いくら考えても、パンの詰まったバスケットは、最初からテーブルの上にあったような気がするのだ。
「ヴェスト、出来たぜ」
「ああ、ありがとう兄さん」
男はテーブルの真ん中に大皿を置くと、そのまま席に着いてジョッキを持ち上げた。ドイツもジョッキを手にすると、湯気の立つ、身の詰まったヴルストの上へと持っていく。
「prost.」
グラス同士がぶつかり合うと、ビールの飛沫が宙で跳ねた。
「お前、まだ飲んでなかったのか」
「乾杯をしていなかったからな」
「先に食ってていいっつったのによ」
「兄さんと一緒に食べたいと思ったんだ」
そう言うと男は、わかりやすいくらいの笑みを浮かべて、そうかそうかとゲラゲラ笑った。まだ酒が回るには早いだろうに、もう両頬が紅色に染まっている。血管が透けるほど肌が白いため、一層頬の赤みが目立つのだ。
男はヴルストに豪快にフォークを突き立てると、大きく口を開き、鋭い歯で噛み切った。膨れた両頬を動かし咀嚼する姿は、さながら愛らしい小動物と言ったところだが、先ほど見た鋭い糸切り歯を思うと、小動物というよりかは肉食動物である。
ドイツはサラミの乗ったパンを口に運んだ。男の姿を見ながらぼうっと口を動かしていると、彼の肩口に乗る、黄色い小鳥の姿に気付いた。目が合うと、小鳥はぴいぴいと威勢よく鳴いた。今朝見た小鳥だ。
「ん?何だ、お前腹減ってんのか?」
男の問いかけに小鳥は返事をすると、テーブルの隅に羽を下ろした。男が自分のパンを小さくちぎって小鳥の前によこすと、ピィピィと鳴きながら嬉しそうにパンをつつく。
なるほど、こいつは兄さんの鳥だったのか。
ドイツは今朝の風景――芝生の上でしきりに歌う小鳥の姿――を思い出し、悪いことをしてしまったと思った。兄の鳥だと知っていれば、家に入れてやったのに。
しかし、兄さんは一体いつ、その鳥を飼い始めたのだろう。考えてみると、昨日も一昨日もそのずっと前も、この小鳥は男の肩や頭に乗っていたような気がする。
「見ろよヴェスト。かわいいなあこいつ」
でれでれとだらしない声の主は、パンをつつく小さな嘴の虜になっている。ドイツは苦笑いを浮かべつつ、「そうだな」と言葉を返した。食事に夢中になっている小鳥を見つめながら、そういえばこの鳥は、気が付いたら兄さんの傍にいたのだったなと、ドイツは思った。きっと今朝忘れていたのは、寝ぼけていたからだろう。
「すごい食欲だな。もうパンが無くなりかけている」
「よーし。俺様が奮発してもう一切食わせてやるぜ」
男はバスケットの中からシュヴァルツブロートを取り出すと、傍に置いてあったナイフを取り、薄くスライスして、鳥の目の前に置いた。おまけだと言って、上にチーズも載せてやる。男がブロートをバスケットに戻すのを見て、ドイツは抱いていた疑問を口にした。
「そうだ。今朝パンを買ってきてくれたのは兄さんか?」
「…ああ」
「俺より早く起きていたのか?」
「まあ、そういうことになるな」
「まったく貴方という人は…。だったらなぜそのままリビングにいなかったんだ。どうせ二度寝でもしたんだろう。早く目が覚めたのなら、そのままずっと起きていたらどうだ。そうすれば一緒に朝食を食べることができるし、早く起きた分、一日を有意義に過ごせるだろう」
歯切れの悪い男の返事に、ドイツの口調は次第にきつくなる。「また説教かよ」と文句を垂れることを覚悟して強めに言ったのだが、男は口応え一つせず、ただ曖昧に微笑むだけである。
ドイツは男の態度を不思議に思ったが、どうせここで畳みかけるように話したところで、男の生活態度は変わらないだろうと思い、その話はひとまず止めることにした。溜息を一つ吐く。
「まあまあ、とりあえず飯続けようぜ」
一体誰のせいだと思ってるんだ。むっとした表情を隠すことなく目の前の男を睨むと、彼は力なくへにゃりと笑った。その笑顔につられて、ドイツの口元が緩む。
怒っていては楽しい食事にならない。ドイツは口元だけで微笑むと、フォークをヴルストに刺して、口元へ運んだ。パリッとした触感の後、口の中に熱い肉汁が広がる。
「美味いな」
「そりゃ俺様が愛情込めて茹でたからな!」
自慢げに胸を張る目の前の男に、ドイツは「そうだな」とそっけなく目を伏せて返事をする。反応の薄い弟の態度に、口を尖らせぶつぶつと文句を言う男の姿。一人で食事をする時とは全く違う、静寂とは無縁の食卓。決して上品だとは言えないが、それでもドイツにとって、この時が最も幸せな時間なのだった。