夜になると、彼は
5.
「兄さん」
「…どうした、ヴェスト」
風邪ひくぞ。
ソファでだらしなく雑誌を読んでいた男は、突然バスルームから現れたドイツの姿を見て、眉間に皺を寄せた。ドイツはそんな彼の訝しげな視線に目もくれず、ただじっと、黙って男の姿を見つめている。
「俺はおかしいのかもしれない」
「…腰にタオル巻いただけで平然と人前に出れる今のお前は、確かにおかしいかもな」
「茶化さないでくれ」
「そっくりそのままお前に返すぜ」
「兄さん!」
「わかった。……とにかく服を着ろ」
男はソファから起き上がると溜息をつき、ぼうっと突っ立ったままの弟の肩に手を掛けた。瞬間、弾かれたようにドイツが男の方を見る。男は薄く笑っていた。まるで、弟がこれから何を告白しようというのか、その全てを初めから、知っているかのような笑みだった。
服を着るとドイツは再びリビングへ足を運んだ。兄はダイニングテーブルに座り、一人静かに酒を飲んでいた。細い指先で、テーブルにちょこんと座る小鳥の頭を撫でている。穏やかな表情であった。
「毎週火曜日は、兄さんがパンを買ってくる日だったな」
「ああ」
男の正面になるよう、ドイツは椅子に腰かけた。
「俺はそれを忘れていた。思い出したのは今さっき、シャワーを浴びている最中だった」
「お前最近忙しいみたいだし、疲れてたんだろ」
グラスに注がれたワインに少し口を付けた後、男はドイツにそれを勧めたが、彼はやんわりと断った。首を横に振った際、長めの前髪が大きく揺れる。小鳥が小さく鳴いた。
「そうだな。それくらいのことは、そうだと言えるのかもしれない。だが、俺はこの小鳥の存在すら忘れていた。毎日見ているはずの、こいつのことを。そんなこと、あり得ると思うか。ただの疲労で片づけられると思うか」
小鳥を撫ぜる指を止め、男はドイツの方を見た。震える両手に力を込め、何かに必死に耐えるよう唇を噛みしめる弟に、男はその表情を歪める。ドイツは、咄嗟に男から目を逸らした。今一度、この男の前で瞬きをしようものなら、どこから知らないところから込み上げてくる涙が、零れ落ちてしまいそうだったからだ。
「兄さん、俺は病気なんだろうか」
「ヴェスト、」
このやり取りを、以前も繰り返したような気がする。何故だかそう感じながら、ドイツは震える喉で言葉を紡ぐ。
「思い出せなかったんだ、貴方のこと」
今日一日、振り返れば全てがおかしかった。
イタリアの言葉の聞きとれなかった部分、車庫にあるトラバントの持ち主。加えてイタリアの「二人暮らし」という言葉に抱いた疑問、そして思い出すことの出来なかったトラバントの生産国。ほんの些細なことまで含めるとするなら、それらはすでに食卓のチーズから始まっていたのだ。
「そして俺は今も、貴方のかつての国の名を―――貴方の名前を、思い出せないんだ」
ドイツはテーブルを力強く叩いた。その衝撃に、小鳥が怯えて飛び立っていく。両手で顔を覆ってしまうと、ドイツは大きな声で泣いた。
――ああ、オスト。東の半身。たった一人の、俺の兄よ。
みっともなく涙を流している間、今朝の食卓のチーズが冷たかった理由を、ドイツはたちまち理解してしまった。あのチーズは冷えていた。直前まで冷蔵庫に仕舞ってあったのだ。それを取り出したのは、恐らく目の前にいる兄だった。
そうして今日の夕暮れ。赤紫の空を見て、それを兄の目に似ていると思って、ドイツはようやく男の存在を思い出した。その途端急に姿を現した男の、「ずっとここにいた」という言葉。
思い出せないだけではない。きっとドイツはこの男の存在を「思い出さなければ」、姿すら目に映すことができないのだ。
「泣くな、ヴェスト」
テーブルの上に落ちる雫を、男は一体どんな心持で見つめているのだろう。ドイツの頭を撫でながら、男はあやすように言葉を口にした。緋色の瞳に浮かぶ涙が、陽炎のように揺れる。
「一つになるってのはこういうことだ」
少しずつ忘れて、見えなくなって、最後には忘れていたことすら思い出せなくなる。でもそれは俺が消滅するわけじゃない。確かに肉体は消えちまうが、俺の本質はお前の血となり、そして肉となる。俺とお前は一つになるんだ。
「だからお前が気に病む必要なんざ、これっぽっちもないんだ」。そう言って男は笑った。兄さん、兄さん。男の言葉を聞かないように、ドイツは大きな声で彼を呼ぶ。
「あなたの名前を、『オスト』になる前の名前を、教えてくれ」
男は一瞬口を噤んだが、やがてドイツとしっかり目線を合わせると、真剣な表情で「プロイセンだ」と言った。男の言葉を、ドイツは何度も何度も口の中で呼ぶ。プロイセン。プロイセン。いくらその名前を口にしようと、ドイツの身に何の変化も起きることはない。
何度も自分の名を繰り返すドイツの顔をしばらく見たあと、プロイセンはそっと目を閉じた。そうだ、それが俺のかつての名前だ。抑揚のない声で呟く。
「プロイセン、俺は、」
ドイツにとってそれは、まったく聞き覚えのない言葉だった。どこか懐かしい感じをうっすらとは覚えるが、それもすぐに消えてしまう。この人と、俺はこんなにも一緒にいたはずなのに。
その名を、ドイツはもう完全に思い出すことができないのだった。
「…大丈夫だ、ヴェスト。今日のことも、明日になればすっかり忘れる」
「それは、」
「今回が初めてじゃない」
「…ど、どういう意味だ」
プロイセンは曖昧な笑みを浮かべると、お前は覚えていないだろうな、と言って、ワイングラスに手を伸ばした。赤い雫が彼の口の端を伝う。
「毎日だ。朝が来るたび、お前は俺のことを忘れ、目に映さなくなってしまう。だが暮れ時になると、決まって俺のことを思い出す」
「…そして夜になると、こうしてあなたの前でみっともなく泣くのか」
「泣くのはお前だけじゃないがな」
プロイセンが小さく鼻を啜る。はっとして見つめると、彼は静かに涙を流していた。そうだ、一番辛いのは俺なんかではない。確か存在しているのに認識してもらうことのできない、兄さんのほうなのだ。
ドイツは手のひらで乱暴に涙を拭うと、プロイセンの頬にそっと指を這わせた。流れる涙を掬い取る。そっと開かれた目に浮かぶ涙が美しかった。ルビーの瞳はその涙のため、一層輝きを増しているようだった。
「兄さん、俺は絶対に覚えている。思い出せなかった出来事も、今知ったこの事実も、あなたの名前も、何もかも。明日も明後日も、俺はずっと、永遠にあなたのことを忘れない。あなたの瞳に誓うよ」
「……ありがとう、ヴェスト」
果たして、俺はこの言葉を何回この人に突き付けたのだろう。そうしてこの人は、俺の言葉を一体何回信じてくれたのだろう。
微笑む男は儚げだった。それでも取り繕うように、ドイツを安心させるように笑う。兄さん、とドイツは思った。どんな状況でも、弟に忘れ去られそうになっても、男は彼の「兄」だった。