暦巡り
八十八夜 5月1日
「日本茶、好きだぞ」
なんとはなしにそう言うと、座卓のはす向かいで急須から湯気たつお茶を慣れた手つきで湯呑みに注いでいた彼は、「そう言ってもらえて何より」と、口元をほころばせる。まったくもって穏やかな昼下がり。そこまではちっとも問題なかったんだ。だけど。
「ふふ、初めてお出ししたときはちょっとした騒動になりましたからねえ」
しまった。藪を突付いて蛇を出すってこういうことを言うんだな。
日本が口にしたのは、俺にとっては過去に置き去りにしたまま思いだしたくない失敗談のひとつだ。
初めて見る持ち手のついてないティーカップ。つまり、湯呑み。どう扱っていいのかよくわからなかった俺は湯呑みをしっかりと掴んで持ち上げようとした。それが大失敗。当然ものすごく熱くて。
俺は自分の口に運ぶはずだった湯呑みを天井高く放り投げていた。
幸い、その場にいた誰かに日本茶の雨が降り注ぐことはなかったけど。
「……いい加減それは忘れてくれよ」
「ああ、相すみません」
謝罪の言葉を口にする日本。けど、本心から悪いと思ってるわけじゃないってわかる。くすくすと楽しそうに笑い声をこぼしながらだからな。どうやら忘れてくれる気はないらしい。
「それはセン茶?」
「ええ、今年の初物、新茶ですよ」
「新茶か……」
話題を変えようと話を振ると、日本は嬉しそうに相好を崩す。
君ってホントに、新茶とか新米とか初鰹とか初回限定版とか、『新』や『初』がつくもの大好きだよね。
熱いですからお気をつけてと、微苦笑と共に添えられた余計な一言にちょっとだけ眉をしかめて湯飲みを受け取る。君、ちょっとしつこいよ。忘れてくれってば。
なんとも言えない居たたまれなさを感じながら、ひとくち熱いお茶をすする。
「おいしい」
俺の機嫌は案外すぐに持ち直した。もうひとくち。うん、おいしい。香りもいい。自分でも単純だなって思う。でも、おいしいって素敵だ。
はじめは少し苦味というか渋みが苦手だったけど、今ではすっかり慣れてしまった。むしろ、濃く煎れた渋いお茶の方が口の中がさっぱりするから好み。
「うん、やっぱり日本茶、好きだな」
日本が煎れてくれる日本茶は、特にエクセレントだ。
やり方が下手だっていうのもあるんだけど、自分で煎れるとはっきり言って不味い。飲めたもんじゃない。評判の日本食レストランで出される物も美味しいんだけど、なんか違う。
やっぱり、日本が煎れてくれる日本茶が好きだ。
それにね、君と一緒に飲むってのが一番とびっきり素敵なフレーバーなんだと思うぞ。
もう一口お茶をすする。うん、お茶の味は申し分ない。けど。
「お茶菓子があるともっと好き」
そう言ってにいっと笑うと、日本は「貰い物のお饅頭、召し上がりますか?」とふんわり目を細める。
日本茶には和菓子だね! 「もちろん!」と、すぐさま諸手を揚げて頷く。そんな俺の様子を見て、日本はより一層笑みを深くした。
END