暦巡り
立秋 8月7日
※事後注意。
いつもの和室なのに、蚊帳で切り取られた空間は何か異質な感じがする。
ただ、薄いメッシュの布切れ一枚で外と区切られただけなのに。
……そういえば、蚊帳には魔除けの意味もあるって、前に日本が言ってたんだぞ。
そのときは非科学的だと思ったけど、実際ここにこうして身を置いていると、彼の言葉は妙に納得できた。
日本もイギリスに負けず劣らず不思議国家だからな。
俺はたわんだ蚊帳越しに板張りの天井を見上げながら、そんなことをとりとめもなく考えていた。
日本ちのじとりとした、やる気を根こそぎ奪われ融けて崩れ落ちそうになる暑さも、夜には幾分和らぐ。少なくとも、昼間のような凶暴さはない。
だけど、身体に燻った別の熱はいまだ冷めず、なかなか寝付くことができなかった。
半分ほど開けられた障子戸の隙間から仄かに差す月光。蚊取り線香の匂いが宵闇の中で揺れている。多少薬臭いけれども、俺はこの匂いが嫌いではなかった。「蚊取り線香の器はやはりこれでなければ」と、日本が主張し毎年愛用しているあの愛嬌のある陶器のブタが、頑張って煙を吐き出しているんだなとぼんやり思う。
「ふ……ぅ」
小さくため息をついて、ごろり、寝返りをうった。じゃり……と、ソバガラの枕が鳴る。蚊帳の中、布団を並べて、俺の右隣には日本の横顔。
眠気はまったくやってこないから手持ちぶさたで、その端正な寝顔をなんとなく眺める。
俺とは対象的に、日本は深く寝入っているようだった。浴衣が寝乱れることもなく、仰向けの姿勢を崩さずぴくりとも動かない。
寝息の音すら立てない。
「……生きてるよね?」
思わずそう呟いて、何をそんな馬鹿なと、自分自身にツッコミを入れる。
でも、漠然とした不安は拭い去れなかった。
日本はやっぱり微動だにしない。
外から吹き込んできた風が、思いの外涼を含んでいて、じわりと汗が滲んだ肌をつめたく冷やす。
「……」
手っ取り早い確証が欲しい。
そう思った俺は彼の鼓動を確かめようと左手を伸ばし、日本の胸に手のひらをのせた。……浴衣越しでは良くわからなかった。
じゃあ、と、今度は上半身を布団から起こして、日本の側ににじり寄る。自分の耳を日本の胸にぴたりと直接押し付けた。
トク……トク……。
微かな音だったけどちゃんと聞こえる。安堵するのと同時になんだか可笑しくなった。日本は心音まで控え目なんだな。
「……どうか、しましたか?」
不意に、眠気をはらんだ掠れ気味の低い声が後頭部に降り落ちる。日本が起きたらしい。
「……日本」
のけ反るように顔を上げ、俺は視線を彼に向けた。
「……なんでもない」
ぽつりと呟く。さすがに本当の理由は馬鹿らしくて言えなかった。
すると、ごつごつとした骨っぽい日本の手が俺の頭の形を確かめるようになぞり、くしゃくしゃと髪を乱す。その指先が、顔をのせている胸元同様にひやりとしていた。
「……日本の体温、低いね」
「まあ、そうですね。私、爺ですから。……アメリカさんは熱いですね」
頭から下ってきた日本の手が、頬を撫でる。
「どうせ、子供体温だって言いたいんだろ?」
「いいえ、そんなことは。……先程の熱がまだ冷めず、持て余していらっしゃるのでは……と思ったのですが?」
図星だった。でも、素直に頷くのは少し癪で。
「……だとしたら?」
わざと煽るように、暗闇の中でなお深い、黒曜の瞳を見つめる。
「では――」
いったん言葉を区切り、親指で俺の下唇をつうっとなぞりながら、
「もう一度、共に熱に溺れましょうか?」
そう言って、日本の唇がゆるく三日月の弧を描いた。
END