暦巡り
処暑 8月23日
「ああ、そういえば今日、すぐそこの神社で夏祭りがあるのですが、一緒に行きませんか?」
夕焼けの残り火が空にオレンジからネイビーへと変わる綺麗なグラデーションを作るころ、庭にウチミズをしていた日本がふと思い出したように言った。
昼間の暑さにだれて、縁側に寝転んでだらだらと夕涼みをしていた俺は、『夏祭り』という言葉に一気にテンションが上がる。勢いよく起き上がり、「もちろんだよ!」と、二つ返事をすると、
「では準備をしましょうか」
そんな俺を見て、日本は嬉そうに笑った。
すっかり日は落ちて、空には細い細い三日月。
カランコロンと日本のゲタが鳴る。
その様子が面白くて、俺もゲタを履きたいと言ったら、「下駄は慣れていないと歩きづらいので、こちらをどうぞ」代わりにセッタとかいうサンダルを渡された。……これ、鳴らないからつまんないんだぞ。
当の神社は本当に日本の家から目と鼻の先で、ぽち君の散歩でこれまでも何回か来たことがあった。けど、お祭りは初めてだ。鳥居をくぐり抜けると、参道を挟んで、カラフルなのぼりを立てた屋台が両脇に並び、その上に連なった祭りちょうちんが、夜風に煽られて淡い黄色の光を揺らしている。「地元の小さなお祭りです」って日本は言ってたけど、参道はなかなかの人出で、熱気とざわめきに包まれていた。すごくワクワクする。日本ちのお祭りは俺んちのフェスティバルとはどこか違うよね。なんか、もっとファンタジックな感じ。この雰囲気が好きだ。
でも、屋台の食べ物はもっと好き!
屋台のひとつから漂ってきたソースの匂いが魅力的過ぎて、正直な俺のおなかの虫がきゅるきゅると鳴き声を上げた。
「……おなかが空いたんだぞ」
「先にお参りをしてからですよ」
「じゃあ、早く行くんだぞ!」
「ちょ、引っ張らないでください! 危ないですよ!」
「大丈夫、大丈夫! 俺がいるから!」
転びそうになったら俺が支えてあげる!
日本の手を取って、人の波を掻き分けるように早足で参道を進む。神社に続く石段に差し掛かると、どこからか笛やタイコの楽しげな音楽が聞こえてきた。階段を一段また一段と登るごとに、次第にその音は大きくなっていく。
「ボンオドリ?」
「お盆はとっくに過ぎましたよ。……これは神楽の曲ですね」
「カグラ?」
「神楽舞のことです。……説明よりも実物を見に行きましょう。境内でやっているはずですから」
そう言うと、今度は日本が先に立って階段を登り始めた。カグラマイって女の子の名前? 日本の知り合いかな? それともまた二次元の嫁?
手を引かれるまま石段のてっぺんに着いた俺の目に飛び込んできたのは、広場の中央、ちょうど俺たちの正面に設えられた舞台で光をまとって優雅に踊るきらびやかな巫女姿の女性と、彼女を丸く取り囲んで座る楽器の奏者たちだった。
なんだ、二次元じゃなかったけどやっぱり女の子か!
「あのこがカグラマイ?」
女の子を指差して、隣の日本にたずねた。音の洪水の中で、自然と声が大きくなる。
「違います……! ええ、いや、確かに神楽舞は名前っぽいですが、今、巫女さんが舞っている踊りのことですよ」
「へえ、カグラマイってダンスだったのか!」
「神様に奉納する――見て楽しんでもらうための踊りです。うちの神様は楽しいことが好きですから」
「そうなのかい?」
「ええ……もしかするとこの夏祭りにも、こっそり紛れ込んでいるかも」
神様に会えるかもしれませんよ……と、楽しそうに笑いながら、日本はにこりと目を細めた。
お参りを済ませれば、あとは念願の屋台タイム。
「さーて、何から食べようかな!」
いろんな種類の屋台があって目移りするけど、やっぱりまずは食べ物だぞ!
「焼きソバ、たこ焼き、お好み焼きに、でっかいフランクフルトもあったよね! それから、焼き鳥、フレンチフライ、……ねえ、揚げパスタって、あのパスタを揚げてあるのかい? あとデザートには、綿菓子、チョコバナナ、かき氷、クレープにりんご飴……あ、あっちのも美味しそう!」
「そんなにいっぺんには無理ですって……」
「全然平気だぞ!」
「あなたが大食漢なのは知っていますが、さすがにお腹を壊しますよ」
「だって全部食べたいんだぞ!」
「ですから……」
「食べたいんだぞ!」
ゲタの時は折れたけど、こればっかりは譲れない。だめ押しとばかりにじっ、と日本の目を見つめると、困ったように眉毛を下げて、彼は大きくため息をついた。
「……ほどほどでお願いしますよ」
「わかってるさ! じゃあ、まず焼きソバから!」
日本の了承を得た俺は、手始めにすぐ横にあった焼きソバの屋台に狙いを定める。香ばしいソースの匂いがたまらない。……さあ、突撃だ!
「焼きソバ、五個!」
手のひらをパッと開いて店主に注文する。
後ろから、大きな日本のため息がまた聞こえた。
焼きソバを平らげたあとは、気になる屋台を片っ端からはしごする。日本ちの食べ物はやっぱりおいしいね。でも、チョコバナナはもっと甘いほうが俺好みだぞ。
一緒に歩く日本はほとんどなんにも食べないから、どうしたのか聞くと、「見ているだけでお腹いっぱいですから……」と、彼はなぜか疲れた笑顔で、ははは、と乾いた笑い声をたてた。
フレンチフライの最後の一本を口に放り込んで、紙の容器をくしゃりと握り潰す。次は何を食べようかな……ときょろきょろ辺りに視線をめぐらせた。夜もだいぶ更けてきたけどまだまだ多くの人が夏祭りを楽しんでいる。熱気はまだ覚めそうにない。
さっき日本が言っていたことを思い出した。確かに、こんなに楽しいんだから神様だって遊びたいに決まってるさ。このお祭りどこかで日本ちの神様が綿菓子を食べたりしているのかな?
その様子を想像するとなんだか可笑しかった。
「つぎ、射的やろうぜ!」
「ええー、くじにしようよ、くじ!」
「バッカ、くじ屋の当たりくじなんて、都市伝説だぞ!」
立ち止まっていた俺の脇をすり抜けて、浴衣姿の子供たちがきゃらきゃらと笑い合いながら追い越して行く。皆、俺も知っているアニメのキャラクターのお面を被っていた。
ほほえましい光景に口元を緩めると、その子達のなかで一番後ろを走っていた子が不意に立ち止まり、こちらを振り向く。その子は赤い縁取りのある白いキツネのお面を着けていた。
あれ? あんなキャラあのアニメに居たっけ?
そう思って首をかしげると、細い口の端をにいいぃっと持ち上げて、
キツネのお面が笑った。
「え……!?」
まさかお面が笑うなんて。……何かの見間違いだよね?
眼鏡をずり上げて目をゴシゴシ擦り、戻してもう一度よくキツネのお面を見ようとしたら、その子はくるりと踵を返し他の子を追って雑踏の中に消えて行ってしまった。
なんだったんだろう、今の。
「どうかしたのですか?」
「ね、今、あそこにいた子の――ううん、なんでもない」
「そうですか?」
やっぱり、見間違いに決まってるさ。お面が笑うだなんてありえないよ。だって、もしそうだとしたらホラーじゃないか! そんなの恐すぎるんだぞ!
よし、さっきのことは忘れよう。気を取り直してもっとお祭りを楽しもうじゃないか!