傷痕に花束
結果をいえば、帝人は臨也のことのみ忘れていた。
「特殊といえば特殊な例だね」
新羅は臨也に専門的な話をした後、そう告げた。彼が言うには、帝人は本当に臨也のことだけを忘れていたらしい。例えば、自分に馴染みの情報屋がいたことや、ダラーズに影からちょっかいをかけていた人物がいたことは覚えている。しかし、それがイコール折原臨也に繫がっていないようだった。
そして臨也と付き合っていたことに関しては全く覚えていないという。
「そのことだけど、」
新羅は気の毒そうに臨也を見た。若干たちの悪い笑みを含ませ、臨也の反応を楽しむように。
「実生活に支障はないし、本人も臨也のこと以外は全部覚えてるから別に思い出さなくてもいいって」
――特にいい関係でもなかったようですし。
帝人はその一言で過去の一部を切り捨てた。先日会った男の様子に、思い出す必要はないと。その言葉を吐いた時の帝人は小刻みに震えていた。
「俺としても無理やり思い出させようとするのは勧めないよ、臨也」
新羅はその時の帝人の怯えた様子を思い出しながら釘を刺した。内心、無駄だろうなぁ、と諦観を抱いていたが。臨也はいつだって好きなように動く。静雄とは違った意味で、本能に忠実な男なのだ。
帝人はどう考えても記憶を取り戻すことに恐怖していた。常識的に考えて、それだけ臨也が酷い事をしたのだろう。しかし、あくまで知人という立場で接していた新羅にさえ、帝人がそれで臨也を忘却するような弱い人物にはみえなかった。
何かがあったのだろう。新羅も知らない彼だけの舞台裏で、臨也だけを忘れてしまいたくなるような何かが。問題は、その何かを自分はおろか当事者である臨也も知らないということだ。
臨也は眉を寄せて新羅に言った。
「別に俺はもう帝人君に構う気はないよ。まぁ確かに記憶喪失になった人間が忘れた人間と会うときの変化なんかは観察しがいがあると思うけど。俺も別に暇を持て余してるわけじゃないし」
「それは懸命な判断だと思うよ。――お互いにとってね」
「?」
それでも新羅は、臨也が帝人に会いに行く様が目に浮かぶようだった。何だかんだと理由をつけて、そのくせ自分の気持ちには気付かないまま会いに行く様子が。
臨也と帝人の付き合いは、恋人同士という言葉には程遠いものだった。決して砂糖菓子に包まれたような甘いものではなかったし、かといって互いに利益だけを求めていたような関係でもなかった。
付き合い始めた切欠は確かに利害関係の一致だった。しかしそれだけでもないのも確かだった。好意もあったのだろうと思う。体まで重ねたのだから、そうなのだろう。
別れる時も綺麗なものだった。臨也は帝人を利用して利用して利用しきって、その挙句闘争をできるだけグチャグチャにかき混ぜて人間関係をドロドロにした。帝人も臨也を十分利用したし、フィフティフィフティだと思う。そうしていよいよ全ての物事が混迷して帝人の利用価値がなくなったときに「別れよう」と言った。帝人は目を丸めた後、「分かりました」と肯いた。臨也が拍子抜けするほど、あっさりと。
来るもの拒まず、去るもの追わず。
帝人はどこまでも、ダラーズの化身だった。いらないモノの排除なんてやっているくせに、呆れるほどその本質は変わらなかった。臨也も酷い事をした自覚はあるが帝人の方が余程酷いと思ったものだ。
だからこそ、帝人が何故今になって臨也だけ忘れてしまったのかがまるで分からなかった。