ある、池袋の日常
2.青年の非日常
大きな破裂音が響く。怒号と悲鳴、宙を飛ぶ自販機やゴミ箱、唸りを上げる道路標識。池袋では割とよくある光景だ。
―――と言われるが、帝人はあまりそれを見かけた事がなかった。
遭遇したのは今までに3度。1度目は目の前に臨也がいて、その臨也めがけてコンビニのゴミ箱が飛んできた。その頃の帝人は池袋事情を良く知らず、杏里と一緒に逃げ出した。まあ、正しい反応である。
2度目は、学校の帰りに60階通りで街路樹を引っこ抜いているのを見かけた。相手は普通のサラリーマンのようだったが、詳しいところはわからない。遠巻きに眺める人垣のさらに向こうから見かけただけなので、静雄の姿すらよくわからなかった。
3度目は自動販売機。真っ赤なロゴのそれがビルの谷間に見えた時には驚いた。興味本位も手伝ってつい近くまで見に行ったのだが、怒っている時はあまり近付きたくはないし、近付いたところで気付いても貰えない。
事実、この時帝人は彼と目があった。サングラス越しとはいえ強い視線は震えがくる程で、けれども直ぐに反らされたそれが帝人を見ることはもうなかった。
そんなもんだよね、と厳しい現実に溜め息を零す。
痛い目に遭いたい訳ではない。噂ばかりが先立つ有名人を間近で見てみたいという、ただの好奇心だ。
それがつい先日、少しだけ話をする機会に恵まれた。それを『恵み』と取る辺りが帝人の帝人たる所以だが、実際話をしてみた感想は『怖かった』けど『楽しかった』だ。
欲を言えば、もう少し話をしてみたい。そう思っていたのだが、何のことはない、相手は自分の顔すら覚えていなかった。
怒っていない時、つまり普通に街中でも一度見かけたことがあったのだが、すれ違いざま会釈をすると怪訝そうな顔をされてしまった。覚えてない人間にわざわざ説明するのも押しつけがましい気がして、帝人は結局無かったことにしてそのまま通り過ぎた。
自分の顔が人の印象に残りにくいつくりだというのは、誰に言われずとも熟知している。性格だって、真面目で手のかからないそこそこ優等生という、卒業して3年も経てばクラスメイトの半数が記憶から消してしまうだろう、そんな『よくいる』人間にすぎない。
だから仕方ない―――そう思いはするが、本音を言えば悔しかった。なぜ悔しいと思うのかがわからないから、よけいにイライラする。
思い出すと気が滅入って、帝人は公園の入り口の前で足を止めた。まっすぐ帰るのが億劫で、ちょっとだけ時間をつぶして帰ろうと自販機を探す。
が、以前確かにここにあったはずのそれは、跡形もなく消えていた。いや、跡形はある。地面に残る四角い跡が、自販機紛失の犯人を如実に語っている。
まあいいか、と帝人は手近なベンチに腰を下ろした。鞄からペットボトルを取り出して、生ぬるいお茶に口をつける。
12月も半ばだというのに今日は暖かくて、ブレザーの上に薄いコート1枚だけの格好でもあまり寒くなかった。もっとも、まだ日が落ちたばかりだから、夜になるともう少し冷えてくるのだろう。
早く帰った方がいいのはわかっていたが、一度腰を落ち着けてしまうとなかなか立ち上がれなくなってしまった。大通りから外れたここは喧噪もなくて、なんだかしみじみしてしまう。
少し冷たくなってきた風が心地よくて、ちょっとだけ、と帝人は目を閉じた。道路を走る車の音、内容が聞き取れない程度に響く人の声、そんな生活音が小さく耳を打って実家の田舎を思い出す。
それらを聞くともなしに聞いていると、穏やかな睡魔が押し寄せてくるのがわかった。こんな所で寝たら風邪をひいてしまう。そう思うのに、目を開ける事ができない。
ちょっとだけ、とそんな風に繰り言い訳しながら、帝人は引きずられるまま意識を手放した。
穏やかな天気に相応しい、穏やかな午後。常日頃忙しい弟と会えたのはほんの数時間だったが、望むような日常を過ごして静雄は上機嫌だった。
いつものバーテン服ではなかった所為か絡まれることもなく、これが毎日続けばいいのにと思うが、現実はいつも彼に厳しい。彼にとっての『日常』は、暴力と悲鳴と身内からの慰めで、たまにセルティと会って他愛のない話をするのが安らぎだったりする。
その原因の半分以上は彼自身にあるのだが、もちろん当人はそんな風に思ってはいない。キレやすい性格の所為ではなく、自分の力を忌避して誰もが遠ざかるのだと信じている。
そういえば、と静雄はふと、先日会った高校生のことを思い出した。どう見ても中学生にしか見えなかったのだが、来良の制服を着ていたからあれでも高校生なのだろう。自ら話しかけてくる癖に手を伸ばすと怯えを見せ、怖い噂ばかり聞いているんだから仕方ないと開き直る奇妙な子供だった。
もう一度話してみたいと思う程度には興味を持ったが、顔を覚えるのが苦手な静雄は、次の日のはもう少年の顔がわからなくなっていた。
何度かこの公園にも足を運んでもみたがそれらしい学生を見ることはなく、街で突然会釈してきた高校生に、ひょっとしてあれかと思い至った時には人混みに消えていた。まさか来良の前で待ち伏せする訳にもいかず、そもそも顔がわからないのだから待ち伏せたってどうにもならない。
まさにお手上げ状態だ。せめて名前を聞いておけばと悔やんでも遅い。
思い出すと気が滅入って、静雄は公園の入り口の前で足を止めた。まっすぐ帰るのが億劫で、ちょっとだけ時間をつぶして帰ろうと自販機を探す。
が、以前確かにここにあったはずのそれは、跡形もなく消えていた。いや、跡形はある。地面に残る四角い跡が、自販機紛失の犯人を如実に語っている。
いつ投げたんだったか…、と考えてみるが思い出せない。まあいいか、と静雄は手近なベンチに腰を下ろそうとして、そこで眠る少年に気付いた。
短い黒髪、童顔、来良の制服、…思い出せるキーワードはすべて当てはまってはいるが、この少年が彼なのかどうかはいまひとつ自信がない。
目を覚ませばわかるだろうと、静雄は微妙な距離を置いて隣に腰を下ろした。
12月も半ばだというのに今日は暖かくて、けれど日が落ちてしまうと途端に冷気が冬の気候を実感させる。こんな季節に暢気にベンチで眠っている少年は、制服の上に薄いコートを羽織っているだけの軽装だ。控えめに評してもひ弱な少年にしか見えず、このままでは風邪を引くのは必至だろう。
そもそも、こんな時間にこんな場所で寝ているなんて、危機感がないにも程がある。
なにかかけるものをと思ったが、今日の静雄は黒いスキニーパンツにセーター1枚という恰好で、他は帰り際幽に「見てる方が寒い」と押しつけられたマフラーだけだ。意外とこれで寒さを感じないのだが、さすがにセーターを貸してやる訳にもいかない。
無いよりましかと持っていたマフラーを広げると、静雄はそれを、眠る帝人の肩から首にぐるぐると巻きつけた。思ったより幅があったので端から見ればすまき状態なのだが、静雄はよしと頷く。
と、ベンチに深く寄りかかったまま首だけをふらふらさせていたその身体が、反対方向へと傾いでいった。咄嗟に手を伸ばして小さな頭を受け止めるが、その手をどうすればいいのかがわからない。