ある、池袋の日常
そっと顔を覗き込むが、静雄の手のひらに頬を預けて少年はくうくうと眠っている。どうしたものかと迷いつつ、静雄はその手を自分の方へと引き戻した。抵抗もなく寄りかかってきた身体は、だが静雄の肩を掠めて大腿の上へと倒れ込む。
もぞ、と身動いで、目を覚ましたのかと思いきや再び穏やかな寝息を立て始める。寝やすいように体勢を直したのだろう、なんと言うか、暢気なものだ。
この状況でまだ眠り続ける子供に呆れつつ、静雄は些少の興味を持って眠る顔を眺めた。短く切りそろえられた髪は黒く、静雄の持つ『高校生』のイメージからは程遠い、純朴そうな印象だ。
起きたらどんな顔をするのだろう―――。
ふとそんな興味が頭を掠めて、静雄は短い髪にそっと触れてみた。今は閉じられている目は、そういやすごく大きくて真っ直ぐだったかと、そんなことを思い出す。
やっぱりコレがあの時の少年だ、と確信に近いものを抱いて、静雄は眠る子供の頭を飽きることなく撫で続けた。
くしゅん。
小さくくしゃみをして、そのはずみで帝人はなにかに頭をぶつけた。固い感触。でも木じゃない。
もやのかかった思考のまま目を開けると、頭の下に黒い色が見えた。手で押すと柔らかくて、うお、と低い声が頭上から響く。
……声?
途端に眠気が吹き飛んで、帝人は慌てて身体を起こした。予想通りそれは人の足で、自分はその上に上半身を預けて眠っていたらしい。
「…起きたか?」
目の前にいるのは20代の男性。金髪以外いつもの特徴はなかったが、他人の顔をちゃんと覚える帝人はそれが誰だか直ぐにわかった。
「し、静雄さん…!」
「おう」
「す、すみません、あの、…いったいいつから」
「ん? …1時間くらいか?」
そんなに、と時間を確認すると、学校を出てから1時間半が過ぎていた。つまり、自分が眠ってすぐに静雄がきたという事だ。
「すみません…」
「気にすんな」
ひたすら恐縮はしたものの、帝人の中に怖いという感情はない。そして静雄は、1時間もの間枕にされたというのになぜか機嫌が良さそうに見えた。
「すぐ起こしてくれればよかったのに…」
「一応声はかけたぞ? つついてもみた」
「す、すみません」
「いや、加減がわからなかったから弱すぎたんだろ。強くして気絶されても困るしな」
「はあ…」
気絶しても寝てるだけでも、困るのは同じなんじゃないだろうか。そう思ったが、どちらにしても気遣ってくれた事に違いはないので、帝人はただ「ありがとうございます」と言って頭を下げた。
…ら、なぜか奇妙な顔をされた。やっぱりよくわからない人だ。
ふと、自分が布でぐるぐる巻きにされている事に気付いて、帝人は首を傾げた。肩から首に巻かれたそれに、もちろん見覚えはない。
「あの、もしかしてこれ…」
「他にかけるもんがなかったんだ。まあ、ないよりマシってとこだろうが」
「いえ、あの、すごく暖かいです」
「そうか? ならよかった」
嬉しそうに笑われて、帝人は正直どう返せばいいか迷った。帝人の事を『帝人』だと、先日会った人間だと認識しているのかどうかがわからないからだ。
初対面の図々しい人間、で済ませた方がいいのだろうか。どうせ、またすぐ忘れられるんだろうし。
そんな事を考えつつマフラーをはずしていて、帝人はそこにほつれのような傷を見つけてしまった。引っかけて破けたような小さな穴があるのだが、帝人が破いてしまったのか、そもそも最初からあったのかがわからない。
よく見れば、白い紙のようなものも付いている。これはベンチの塗料が剥がれたものだ。という事は、引っかけた穴も帝人の所為なのかもしれない。
どうしようと手にしたそれを凝視していると、静雄が横から覗き込んできた。その目が破れを見つけるより先に、帝人はその場所を指で指し示す。
「すみません、ここ、引っかけちゃったのかも…」
「いや、最初からあったのかもしんねぇし。ついさっき貰ったもんだからわからねぇ」
「プレゼントなんですか? すみません、あの、…弁償しますから!」
「見てる方が寒いっつって押しつけられたもんだから、気にすんな」
という事は、借り物を破いてしまったのだろうか。それはもっと悪いような気がするのだが。
「あの、じゃあ、なんとか目立たないよう修理してみます」
「そこまでする必要ねぇよ」
「でも」
「いいから」
そう言って静雄が取り上げようとして、帝人は躊躇いつつとっさにそれを引っ張った。繕うのは無理だとしても、せめて洗濯くらいはしてきれいな状態で返したい。
引っ張り合いの決着は簡単に着いた。静雄と帝人の間で、ビリ、と奇妙な音が響いたのだ。長いマフラーがさらに長くなって、帝人は反動で後ろに倒れそうになる。
「あ」
「…えええ!?」
静雄にとってはよくある事だったが、帝人にとっては初めての体験だった。いくら傷があったとはいえ、まさかマフラーがそう簡単に裂けるとは。
もはや布切れと化したマフラーを茫然と眺めていると、静雄がどこか困ったような顔を見せた。怒っている感じではない。
「すみません…! あの、やっぱりこれ弁償しますから!」
そう言うと、静雄が目を丸くする。なんだろう、なにか変な事を言っただろうか?
「……いや。破いたの、俺だし」
「でも、僕も引っ張ったから、」
「お前が引っ張ったって、普通は裂けたりしねぇだろ。よくやっちまうんだよ、その、…驚かせて悪かったな」
「いいえ。…本当にすみません…」
裂けたマフラーを抱えて項垂れていると、頭を軽く―――恐らく静雄にとっては軽いつもりであろう力で、撫でられた。首がめり込みそうな衝撃に耐えて顔を上げると、何故か静雄は嬉しそうに笑っている。
「お前、夕飯はもう食ったのか?」
「いえ、まだです。…その、本当に弁償しますから、」
「よし、じゃあ飯食いにいくか」
そういって立ち上がった静雄は、裂けたマフラーを取り上げるとゴミ箱に放り込んでしまった。躊躇いのない行動に驚いてゴミ箱をじっと見ていると、「おごってくれ」と声を掛けられる。
「それでプラマイゼロだ」
振り返ると、静雄はどこか緊張したような面持ちを見せていた。表情の意味がわからないまま頷くと、静雄がホッとした表情で息を吐く。
やっぱり意味がわからない。が、本人がそれでいいと言っているのだから、これ以上弁償弁償と言い募るのは却って失礼なのかもしれないと思い直す。
「えっと…、露西亜寿司とかだとちょっと足りないんで、途中でコンビニ寄って貰えますか?」
「んな大そうなもん食わねぇよ。…そうだな、米食いてぇから吉牛かな」
「いくらなんでも安すぎです! せめてファミレス行きましょう」
「なんでだよ、美味ぇだろ、吉牛」
誰かを食事に誘う事が静雄にとってどれだけ勇気のいることか、当然だが帝人は知らない。だから、マフラーを破かれたというのに嬉しそうに笑っている、その理由もわからなかった。