ある、池袋の日常
4.そして少年は迷う
静雄の存在は非日常そのもので、帝人にとっては非常にわかりやすい象徴だ。
だから話してみたかった。近づいて、認識されたかった。現実の彼は、異常な力を除けば短気ではあるが普通の人で、けれども帝人の気持ちは変わらなかった。
だからこれは憧れだ―――そう思うのに、なにかが違うと心の中が警笛を鳴らす。
静雄に会うと嬉しくて、話をするのが楽しくて、なのに訳のわからない不安に襲われて逃げ出してしまいたくなる。手に届かないからこその『憧れ』が、身近に触れて期待を持ってしまったから、だからきっと図に乗って嫌われてしまうのが怖いんだろうとそんなふうに結論付ける。が、会いたい気持ちと会いたくない気持ちは、そんな帝人をあざ笑うかのようにぐるぐると翻弄した。
こんな気持ちになった、そのきっかけははっきりしている。あれから二度話をする機会があって、以後帝人は静雄から逃げ続けていた。
一度めは帝人から声を掛けた。その時は、まだ大丈夫だった。二度目は静雄が先に帝人を見つけて、声を掛けられた途端顔が真っ赤になった。突然後ろから耳元にその声を聞いて、勝手に顔が赤くなったのだ。
熱があるのかと心配されたくらいだから、相当赤かったのだろう。
会いたいと思っても、その声を聞きたいと思っても、顔を見ただけで頬が熱くなるのだから、見られないうちに逃げるしかない。
このまま逃げ続けて、それでいいとは思わないがそれでも少し時間が欲しかった。落ち着いて自分の気持ちを見つめる為の、その猶予が。
そんなことを考えながらぼんやり歩いていると、突然後ろで名を呼ばれた。振り返らずともわかる、静雄の声だ。それがずいぶん切羽詰った様子で、驚いて顔を上げるとこちらに向かって突っ込んでくるワゴン車が見えた。
逃げなければ、と思うより先に信号を見た自分は相当鈍いのだと思う。歩行者用の信号は青だったが、それを確認したところで意味などない。そのまま信号を見続けていれば恐怖も少なかったのかも知れないのに、帝人は無意識に車の方へと視線を戻してしまった。フロントガラス越しに、運転席で顔を引きつらせているのは、まだ若い、20代くらいの青年だ。
覚悟して目をつむるが、次の瞬間響いた大きな音に比べて衝撃は小さかった。跳ねられたというよりは、なにかにぶつかったような感触。頬に感じるのは柔らかい布地と―――暖かな体温。
あれ、と目を開けると視界が黒かった。が、感覚でわかる、これは人間の身体だ。
「…大丈夫か?」
頭上から低く声が降ってきて、帝人はそっと辺りを見回した。目の前で自分を抱きこんでいる静雄と目が合い、慌てて逸らしたその先に腕1本で動きを止められた車が見える。事態がまだ飲み込めないながら、帝人は不意にその手が気になった。車を片手で止めたりして大丈夫なんだろうか。
「あ、あの! 怪我はないですか!?」
「いや、俺じゃなくてお前が、」
「だって、腕が! 車を手で止めるなんて、なんて無茶するんですか!」
「止めなきゃお前が跳ねられてただろうが!」
「…取り敢えず場所変えようや。な?」
思わぬ言い合いになったところに、どこかのんびりとした声が割り込む。スーツにドレッドヘアという、かなり特徴のあるこの男を帝人は知っていた。静雄の上司だ。
とぼけた様子を装う声に、帝人はやっと周りの状況を飲み込んだ。さっきガラス越しに見た青年はおろおろと2人を窺っているし、周囲にはちらほらと人だかりが出来始めている。事故というより静雄に噛み付く人間を見に来た野次馬なのだが、なんにせよ、自分たちが交差点での往来を妨げているには違いない。
「ちょっとへこんじまってるな。警察は、…まぁこっちとしては面倒なことは避けたいんだよなぁ。100%そっちの過失だし、、どうせ保険もきかねぇだろ。人的被害もなかったって事で、このまま示談てとこで問題ないかな?」
静雄が車に跳ねられた、もしくは車を跳ねたことはこれが初めてではなくて、だからトムは慣れた様子で車の持ち主とさくさく処理を進めていく。呆気に取られていると突然静雄に担ぎ上げられて、人ごみを抜けた歩道の脇へと運ばれてしまった。そうして適当な場所に帝人を下ろすと、待ってろと念押ししてトムのところへ戻っていく。
離れた場所から改めて見れば、ワゴン車はフロント部分、ちょうどガラスのすぐ下のノーズ部分がぐにゃりと陥没していた。直後に見た時には、静雄は手首まですっぽり収まっていた気がするから、結構な勢いでぶつかったのだろう。少なくとも、そのまま帝人にぶつかっていれば無傷で済んだとは到底思えない。
今更ながら、身体が震えて帝人はその場にしゃがみこんだ。おそらく仕事中であろう静雄に迷惑までかけて、最低だと自己嫌悪が押し寄せる。
「…大丈夫か?」
心配そうな声に顔を上げる。慌てて立ち上がり、はい、と小さく頷いたが静雄は溜め息混じりに顔を顰めた。
「そんな真っ青な顔して、大丈夫はねぇべ。―――今日はもうあがっていいから、送ってってやれよ」
「すんません。明日、その分やりますんで」
「いいえ! あの、本当に大丈夫ですから、」
「ダメだ。…俺が心配で落ちつかねぇ」
悲しそうな、淋しそうな表情で言われて、思わず鼓動が跳ね上がる。すっかり忘れていたけれど、そういえばずっと避けていたのだ。
心配されて嬉しいなんて、なんてはた迷惑なんだと帝人は泣きたい気分になった。いいや、違う。自分につばを吐きかけてやりたい。
じゃあな、と去っていくトムに頭を下げて、帝人は無言で歩く静雄の後をうつむいたまま追った。夕暮れ時の陽が長い影をアスファルトに落として、それを踏まないように距離をとってただ歩く。静雄はひと言も喋らない。前を向くその顔が、怒っているのかどうかもわからない。
「…ちょっといいか?」
唐突に影が動きを止めて、帝人は慌てて顔を上げた。真っ直ぐ行けば家に着く道だが、右手にはいつもの公園がある。
「話がしてぇ」
「……はい」
サングラスをかけたままの顔は無表情で、帝人にはその奥にある感情を読み取ることが出来ない。自己嫌悪に陥った思考では、ただ、嫌われたんだろうというそのことしか思い浮かばなかった。