影のない男の話
「いや、違う。そうじゃない。今はまだ報道もされていないよ。……続きがあるんだ。その旅客機はずいぶん古い型で、ろくにメンテナンスもされていなくて、霧に閉ざされたとき、計器が狂うと同時にエンジントラブルにも見舞われた。救助信号を出す暇もないような、深刻なトラブル」
俺は、突然言いようのない不安に襲われた。寄りかかっていた手すりを強く握り締める。
「結論からいうと、旅客機は墜落した。バミューダ海域の端のあたり。よく、船や航空機が忽然と消失するって言われている場所だな。乗っていた人たちは……乗っていた人と言っても、観光シーズンでもなかったし、現地の操縦士の他に幸い乗客は一人しかいなかったんだけれど。でも乗っていた人たちは、多分もう生きてはいない。その飛行機に、俺が乗ってた。その乗客っていうのが俺だったんだ」
何を馬鹿な、と笑い飛ばそうとした。そうしたら、喉が震えて声がうまく出てこなかった。嘘だろうと思っているのに、頭じゃなくて体の方が先に言われたことを素直に信じていた。
「おそらく、落ちた旅客機はなかなか見つからないと思う。場所が悪いし、機体はばらばらで部品も少ないだろうし。捜索がすごく難航して、最終的に行方不明として扱われる可能性も高いと俺は思ってる。それに、よくある噂通り本当に、あの海域に何か特別な磁場が働いていて、引きずり込まれたんだとしてもおかしくないとも思うよ。ペルソナの力にしてもそうだったけれど、俺はどうもそういうおかしな流れを呼び込みやすいらしいから。だとしたら、操縦士の人にはとても悪いことをした」
自分の身に起こった出来事を嘆きもせず、伏せられた睫毛の下に人のための憂いをたたえた月森を、膝がぐんにゃりして立っていられなくなりそうな俺は、手すりにしがみついて無気力に見やった。何か考えようと思いながら焦点は合わず、月森の顔というか頭のむこうの光る入道雲ばかりを眺めていた。
こいつならば、もしかしたらそんなことも起こり得るかもしれないという、うすぼんやりとした予感が俺にはあった。そんな予感が微かにでもあるということを心底呪いながら、でもたぶん、突然舞い込んできた悪夢を受けとめる、ある種の構えがどこかに出来ていた。
「それで、頼みたいんだ。行方不明となると、もしかしたらどこかで生きているかもと思って、まわりの人たちがいつまでも懸命に探してしまうかもしれないだろう? もしそうなってしまいそうだったら、それとなく止めてほしい。止めて、できれば諦めさせてほしい。辛いんだ。見つかるかもって期待されて、ずっと探されるのは。まわりにいた人たちに、そういうふうに時間を費やさせるのは。それが俺の頼みたかったことで、そのために俺はここへ来たんだ。と、思う。……頼めないかな?」
柔らかい口調で尋ねられて、腹の中で死にきっていた感情が息を吹き返した。そして急に、身震いするほどの怒りがこみあげてきた。怒るな、というのは、まったく無茶な相談だった。
「なんで、んなこと、俺に頼むんだよ……っ!」
「うん、俺もひどいことを言ってると思う。勝手だよな。ごめん。でも、こうして伝える機会が与えられたならば、そうすべきだと思ったんだよ。そして話すなら、テレビの中へ入った人間じゃないと駄目だと思った。両親や叔父さんや菜々子には、とてもじゃないけど頼めない。それから、あのとき一緒にいた誰かに言うとしたら、花村に直接言うんじゃなけりゃ、まずお前が信じないだろうと思った」
胸倉を掴みかねない勢いで詰め寄った俺はまっすぐに謝られ、また言葉を失ってその場に立ち尽くす。確かに、間違ってはいなかった。こいつが俺以外を選んでこの役目を頼んでたら、俺は人づてに聞いたそんなメッセージなんか信じないし、生涯かけて血眼で、とまでは言わないが、心のどっかでいなくなったこいつのことを延々探すのだろう。まぁ、つまり、そういうことだ。こいつの選択肢は正しいし、悪くない。でも、悪くないのがいいかというと、それは怪しい。
しぼんだ怒りのかわりにどうしようもない脱力感と焦燥がやってきて、俺は月森の肩を強く掴む。
「お前さ、本当に飛行機落ちたの? 落ちるなよ、変えろよ。こんなとこにこんなふうにいるぐらいなんだから、どうにかできるだろ。お前なら、なんとかできるだろ」
ほとんど懇願に近い調子で言いつのる俺に、月森は静かに首を振った。
「どうにかならないだろうかと色々考えてみたけれど、どうも無理そうだ。偶然伝える力があったとしても、起こってしまったことは結局変えられないんだろう」
俺はこの後におよんで抱いていた、こいつなら自分の力でひどい事態をなんとか切り抜けるんじゃないかという妄信に近い期待を打ち砕かれ、絶望した。ひどい眩暈がきて、掴んでいた肩に額をつける。コンクリートの上にそっと佇んでいる上履きのラインがぼやけて目を瞑る。
まるめた背中へ気遣わしげな手のひらが触れた。その場違いさにやるさなさが募った。違うだろう、ここで気遣うべきは、俺なんかじゃないだろう。もう、この場所から十五年以上も経っているのに、どうして何も変わらないんだ。