可惜シ華
太閤のなきがらを大阪城へと護送し終えた三成は、未だに放心と昂奮の狭間を揺れ動く不安定な状態ではあったが、それでも雨の中で終わりの見えない慟哭をあげていたあの時よりは随分とましになった。皮肉なことに、家康の首を斬るという確かな目的が、三成に前を見据えさせたことは確かだ。大谷にもようやく息をつける程度の余裕が生まれた。
大阪城に全軍の兵を待機させ、かつてはあの覇王や軍師や反逆者と共に使っていた軍議室に、三成と大谷が陣取った。壮大な弔いの準備をせねば、と三成がいきり立ったのを、大谷はゆるりと手を振って制した。
「何よりまず、兵を鼓舞する必要があろうな」
大谷が言うと、三成は完全に理性が戻ったとは言いがたい眼でじいと大谷を見つめた。その眼には、三成にとっては瑣末な事を秀吉よりも優先させようという男への怒りがあった。大谷はそれと悟りながらも知らぬふりで言葉を続ける。
「三成。ぬしの急く気持ちはようわかるが、兵は動揺しておるのよ。まずはそれを落ち着かせねばなるまいて。無理もなかろ、かの御方に引きあげられたがゆえに豊臣に属した者も多い。支柱が喪われたと知って己が身の振り方に惑う者もあろうもの」
三成は陰鬱な眼をして大谷を睨み、ぎり、と歯を鳴らした。
「豊臣の兵が何に惑うというのだ。秀吉様の無念を晴らすため、幾度斬り刻もうとも許し得ぬ大逆の報いを与えるために!あの痴れ者を斬首の刑に処す、そのためだけに進めばいい!」
「そうよなあ。まさしくそれを言うてやれ、と言っておるのよ」
大谷があっさりと肯定を返すと、三成は訝しげにしながらもわずかに視線を緩くした。
「太閤亡き今、三成、豊臣軍の――石田軍の総大将は太閤の左腕たるぬしのほかにはおるまい。なればこそ、新たな出陣のひと声があれば兵も勢いづくわ」
三成はそれを聞いて眉根を寄せ、吐き捨てるように呟いた。
「……地位や呼称など興味はない」
「だが太閤の仇を討つはぬしが相応しい」
「当然だ」
「なれば兵どもに徳川の反逆のいかに非道なるかを伝えヤレ。義はわれらにあり、よ。それを大将の口より聞けば兵の浮足立った空気も鎮まろう。さらにはこう言い添えてやればよい……」
そうして大谷がひと言二言告げれば、三成はしばし沈黙をした後にようやく頷いた。
ひとまずは一手進んだか。内心でひそかに頷いた大谷は三成を促し、輿を動かして兵の待つ外へと向かおうとした。
それを三成が呼びとめる。
「刑部」
呼ばれて振り返った途端に、三成が振るった刀が大谷の真横の壁に突き刺さった。
ちょうど大谷の首筋に程近い位置だ。突然のことに、さすがの大谷も一瞬凍りついた。刃の突き立った壁を背に、大谷が理由を問うよりも先に、柄に手をかけたまま身を寄せた三成が耳元へ恫喝の声を吹き込む。
「貴様は豊臣を――秀吉様を裏切るなよ」
全身を貫く威圧と共に、刃がさらに深くねじ込まれる。首筋に刃が触れた。大谷は間近にある男の顔を見つめながら、あえて眼を細めて大仰に呆れてみせた。
「今更何を言うか。言うたであろ、我もあの男が憎い――あの男の裏切りには義憤に駆られるわ。太閤に彼奴の首を捧げることこそ義の道よ」
「……本心だな」
「もちろん、モチロンよ。……すべては義のため、そして御大将たるぬしのため」
大谷がひそりと笑うと、しばしその顔を見返した後に、三成は無言で突き立てた刀を抜いた。
そしてそのまま振り向きもせずに先へ行ってしまう。大谷はその姿が見えなくなった頃に、そろりと自らの手を首元に這わせた。そこに傷はなかった。剣呑なことこの上ないが、済んでみれば実害があったわけでもない。どうやら三成は大谷のそれらしい答えに納得したようだ。
あのまま狂い死なすには惜しいと思った。あの男が憎いと思った。それらもまた事実ではある。しかし大谷が何より優先するのは乱世において生きとし生けるものすべてに不幸を振り撒くことであり、家康に感じている憎しみも義憤などとは程遠い私怨と自覚している。
だが、三成にそれはわかるまい。
それにしても惜しみなく、周囲に憎しみで濁った刃を振りかざす男だ。ますます眩しい不幸を放つことよ、と哂うことで大谷は平静を取り戻した。首元に手をあてたまま、そこに刃が寄り添っているような、妙な錯覚を覚えながら。