可惜シ華
整列して控えた兵たちは当然のように落ち着かず、絶えずざわめいている。不安と恐れに怯え、逃げ腰になった無数の兵は、数こそ多くとも、戦になればひとたまりもなく逃げ惑うであろう雰囲気に満ちていた。その光景を城内から遠目に見た三成は、惰弱だ、と吐き捨てた。
「無様過ぎる。……秀吉様の軍に相応しくない」
「そう言うてやるな。仕方があるまいて。それに今はぬしの軍よ」
大谷が宥めるように言えば、三成はぎろりと横目で睨み、叩きつけるように言った。
「違う。秀吉様の遺された兵だ。――こんな姿を晒すことは許さない」
そうして三成は城の中から姿を見せ、兵たちの前へと歩みを進めた。三成を見てざわりと大きく波打った空気が、徐々にその張り詰めた気配に圧倒されるように静まり返っていく。大谷は三成の後方に控え、その変化を見ながら眼を細めた。
傲然と前を睨み据え、兵の前に立つその姿はつい先日の打ちひしがれた様子など微塵も見せず、常と同じく兵たちに恐れと憧憬を等分に抱かせるものであった。
陽を失ってなお、確かな光を放つ将の姿に、兵たちの怯えきったざわめきがついに途絶える。代わりに三成様、と名を囁く声が響き始めた。三成様。三成様。三成様。囁く声音がいつしか大声となり、別の昂奮へと兵を導いてゆく。自らの名を連呼する兵たちを煩わしげに見据えた三成は、「黙れ騒々しい」と口火を切った。
「貴様らもすでに知っているだろう。……秀吉様の御身を襲った凶行を。それを成した者の名を。徳川家康というおぞましき名を!」
三成の怨嗟の声に導かれ、同意の咆哮があがる。三成はそこに仇がいるかのような眼つきで、眼前の無数の兵を睥睨した。
「彼奴だけは許さん。秀吉様の御為に、地の果てまでも奴を追い詰め、手足をもぎ八つ裂きにしてその首を秀吉様に捧げねばならない!
貴様らはどうだ。何を惑う。何を恐れる!愚かしい無様な姿を私に見せるな、貴様らも豊臣の兵なれば、秀吉様への反逆を許すな!」
おお許すまじ、徳川家康、と口ぐちに呪いの声があがる。三成の憎悪は兵を巻き込み、あたり一帯が異様な熱気を帯び始めていた。ひとり熱から離れた大谷は、それを見つめてほくそ笑む。三成の強すぎる怨念は、あるいは兵に恐怖を与えるかとも思ったが、狂気にも似た激情は容易く伝染するらしい。
何より、確かに豊臣の兵にとって、徳川が奪った覇王は貴き唯一の存在であったのだ。
そして三成は大谷が与えた言葉を――豊臣の兵の耳にはさらに響きの良い言葉を放った。
「ここにあるは、豊臣の意思を継ぐ者!秀吉様の仇を討ち、秀吉様の天下をこれより先も世に知らしめるのだ!」
おおお、とさらなる咆哮と歓声があがる。兵たちは雄叫びをあげ、次々に腕を天へと振りかざした。
一方の大谷は、かすかに溜息をついた。「我らの天下を」と三成には仕込んであったのだが、やはり無意識に改変されてしまったか。つくづく心にないことは言えない困った男よと呟いたが、さほど問題はない。
この軍はこれまでの豊臣軍にも勝る怨嗟と残虐を振り撒くであろうと思えば、大谷もまた満ち足りた。
兵の熱狂は長く続き、三成はこの時この瞬間に、豊臣の兵を率いる凶王となった。
兵の前から姿を消し、大谷と共に城内へと戻った三成は大谷を見つめ、
「なるほど貴様の指図はたいしたものだ」
そう認めた。兵たちの雰囲気が怯えたものから獰猛なものへ変わったことを認識し、まず兵を奮い立たせろと指示した大谷の言葉に納得した様子だ。大谷はヒヒ、と笑ってみせた。
「全ては義のためよ、なァ」
「刑部、貴様は貴様の好きなように動け。……秀吉様と半兵衛様がお認めになったその力、家康の首を刈るため存分に使え」
大谷は一気に軟化した三成の態度にヤレヤレと内心で溜息をつく。元より三成は大谷の才智を認めてはいたが、それがさらなる信頼を得たらしい。まったく簡単な男よな、と大谷は呆れた。
しかし一方で大谷は、あの覇王に認められた時よりもひそかに高揚している自分にも気付いている。ハテ、我もあの熱狂にわずかばかり侵されたか。大谷は、その高揚が歓びにも似ていることをそう理由づけた。