君と、明日を。
中編
矢霧波江のせいだ、あの性悪め。
ちくしょう、と心の中で悪態をつき、臨也は戸締りチェックにいそしんでいた。確かに先にあいつに借りを作ったのは自分だが、何もこのタイミングで戸締りチェック代われと言う事はないだろうに。
明日から冬休みと言うこともあり、部活や受験勉強で残る生徒たちも居ない。校舎内全てチェックして回っても夜七時前には帰れると思うけれど、せっかくのクリスマスなんだから、少しでも長く恋人と過ごせるほうがいい。本当なら今頃はもう帰路に着いている予定だったんだけどなあ!と、いらだたしげに舌打ちをした。
こういうところ、本当に自分は教師に向いていないと思う。まあ生徒相手に本気で恋に落ちた時点で分かっていたことだけれども。
「・・・誰、残ってるの?」
がらりと2年の教室の扉を開けると、暗がりの中、動く影を見つけて、臨也は思わず絶対零度の声を出した。とっとと帰ってくれないと俺も帰れないんだよ。
「あ。折原・・・センセー」
声を返した人物には覚えがある。紀田正臣、帝人の親友で幼馴染。それだけで臨也にとっては敵みたいなものだ。可愛い笑顔で正臣がこうでああでと語って聞かせる帝人に、へえそうなんだ、なんて気のないフリをして返事を返しながら、どす黒く子供じみた嫉妬を抑えるのが毎度大変だった。
帝人には笑っていて欲しいと思う。
同じくらい、俺以外に笑うなと思う。
それは本当に、かっこ悪いほど子供じみた感情で、臨也は時々自分のそういう幼さを自覚して愕然とするのだった。何度その体を抱いたところで、深く繋がったところで、臨也と帝人の間には越えられない絶対的な壁があり、それに酷くイライラする。どんなに頑張っても時間を遡って彼の同級生になれるわけじゃないのに、いくら帝人の情報を、体温を、言葉を、手に入れたところで全然足りない。
「紀田君?どうしたのこんな時間まで」
けれどもそんな汚い感情にふたをして、臨也は教師の仮面をかぶる。だってどう考えてもみっともないだろう、こんな子供相手に帝人に関わるなとかわめくのは。
少しの間、躊躇うように視線をさまよわせた後、正臣は思い切ったように臨也に問う。
「先生、帝人見なかった?」
帝人、と、呼び捨てられる名前にさえも痛烈に心が痛む、だなんて。
本当に自分は、愚かな恋の道化なのだな、と。
「いや、見てないけど。もう帰ったんじゃないの?」
苦笑しながら臨也は返した。今日は食事に出かけると前もって言ってあるし、ちゃんと朝念を押して、帰って着替えて待っているように告げた。本人も嬉しそうに、楽しみですと言ったのだから、まだ残っているはずがない、と思った臨也に、しかし正臣は困ったように顔をしかめる。
「でも、鞄があるんです」
「え?」
「それに、靴も・・・下駄箱にまだ残ってて」
正臣が座っていたのは、確かに帝人の席の様だった。見覚えのある肩掛けの鞄が、無造作にその上に置かれている。
「携帯は?」
問い返す声が鋭くなるのは、勘弁して欲しい。まさか何かあったのでは、と思うと、冷静ではとてもいられない。
「携帯、鞄の中にありました」
「・・・心当たりもない?」
「昼休み、具合が悪いって言ってて。保健室行くって出てったんです。でも休み時間に見舞いに行ったら、新羅先生はきてないよ、って」
「・・・」
保険医の新羅は変わり者だが嘘をつくような人間ではない。それでは具合が悪いと言って帝人はどこかへ姿を消したことになる。下駄箱に靴が残っていたというなら、まだ学校の中にいるのだろう。
「・・・喧嘩とか、した?」
「してませんよ!昼休み急に具合悪くなったみたいだから心配で、思いつくところは全部探したけど、いなかったから・・・!」
「分かった、鞄は預かる。後は俺が探すから、君は帰りなさい」
「でも・・・っ」
「帰りなさい」
繰り返した声は低く、自分でも明らかに機嫌が悪いことが見て取れる声だなと思った。怯んだように息を飲んで、正臣が口を閉ざす。その隙を突いて、畳み掛けるように、
「学校が閉まったら君も閉じ込められるだろ。俺は彼が見つかるまで帰れないからちゃんと探すし、見つかったら君に連絡するように言う」
と、教師らしい正論を吐き出した。
そんなものは建前に過ぎないことを、自分が誰より熟知しているけれど。渋々頷いた正臣が、自分の鞄を持って教室から出る。階段を下りて昇降口へと行く前に不安そうにもう一度振り返った。
「見つけたら電話しろって、言ってくださいね」
しつこいな、と眉をひそめ、分かったから早く帰れと手を振る。その後姿が完全に見えなくなるまでは辛うじて待った。そして一つ、大きく深呼吸して。
走り出す。
場所の心当たりなんて、一箇所しかない。