君と、明日を。
今、何時だろう。
帝人は臨也の資料室の端に座り込んで、ぼんやりと顔をあげたけれど、暗がりの中で時計の数字は読めなかった。資料室の合鍵は、卒業の時には返してねと言いながら臨也がくれたもので、帝人はよく暇なときに忍び込んでいる。家でいくらでも会えるのに、学校でも会いたいと思ってしまうのは欲張りかもしれないが。
プリントや資料が無造作に置かれた机も、キイキイと音が鳴る椅子も、この部屋にこもる空気からは臨也が肌に感じられるようで、とても好きな場所だ。けれど今は、やっぱり少し、泣きたいかもしれない。
何で、臨也を信じてあげられないんだろう。
男を抱くなんて、生半可な覚悟じゃできないことを知っている。ましてや臨也のように女に不自由しない人間にとってはなおさら。掠れた声で繰り返される愛してるが、嘘じゃないなんてちゃんと理解できるのに。
それでも心のどこかで、僕なんかじゃだめなんだ、と後ろ向きな思考をやめることができない。平たく言えば、帝人には全く自信がないのだと、思う。
一年、ちゃんと恋人同士でいられたからって、これから先ずっとその関係が維持できるとは限らないじゃないか、と。
いずれはきっと、臨也が自分に飽きる日が来るんじゃないか、と。
最初こそ、熱に翻弄されて考える暇さえなかった。最近ほんの少し余裕ができて、ふとした瞬間に嫌になるほどそれを思う。いつまでこうして、寄り添っていられるのだろう。どんなに背伸びをしたところで帝人には、2人の間に絶対的に横たわる8年の溝を詰めることなどできないのに。余り独占欲が強すぎて、臨也にあきれられないだろうか。三年の担任になってから忙しくて休日さえ出かけてしまう臨也に、本当は行かないでと駄々をこねたかった。構って欲しいと甘えたかった。でもそんなことをしたら、さすがに子供っぽ過ぎはしないだろうか。そう思うと怖くて何も言えなくて。
だから、クリスマスはデートしようといわれて本当に嬉しかったし、今年も一緒にケーキを食べようと言ってくれて、ああまだ大丈夫なんだと安堵したのに。
なのに、そうして帝人を一人にしたくせに、波江と過ごす休日は在るのかと思うと。
こんな気持のまま顔を合わせたら、臨也の顔を見るなり怒鳴りちらして泣いてしまいそうだったから。
「も・・・やだ、」
せめて頭を冷やしたいのに、冷静になろうとするほど、正臣の言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。ゴールイン間近だって?ウェディングドレスを着た波江とタキシードの臨也が並んだら、さぞかし、嫌味なくらいにお似合いだろう。臨也は断固拒否するだろうけれど。
何が楽しくて、こんな疑いのまなざしで誰よりも好きな人を見なきゃいけないんだ。
「・・・っ、別れるほうが、いいのかなあ・・・」
こんな、どうしようもない思いを抱えて、これからもずっと臨也に接しなければならないのなら、いっそのことそうしたほうがいいのかもしれない。わがままばかり言って、困らせてあきれられる前に、先手を打ったほうが。
震える手をぎゅっと握れば、頬を涙が滑り落ちた。涙、と認識した正にそのときだった。
「冗談でもやめてよ、そういうの」
聞きなれた声が、聞きなれない温度で、帝人の耳に突き刺さった。
はっとして顔をあげれば、資料室の扉を開けて臨也がいた。廊下が暗いから気づかなかったのか、思考に没頭していて気づかなかったのかは定かではないが、それを考えている間に臨也は扉を閉め、鍵をかけて帝人につかつかと歩み寄ると、壁に寄りかかって座り込んでいた帝人の目の前に膝を着き、大きく一つ息をつく。
「ホント、やめてよね・・・泣きたいのは俺のほうだよ」
帝人の鞄をすぐそこに投げ出して、臨也はその両手で帝人の顔を包み込み、無理やり顔をあげさせた。聞かれてはいけない弱音を聞かれたのと、情けない泣き顔を見られた混乱から、帝人は嫌がって首を振ったけれど、そうするとさら手に力が込められる。
「っ、ざやさ、」
「先に家に帰って、準備してろって言っただろ」
「・・・っ」
冷たい声出そんなことを言う臨也の顔を、まともに見ることができない。今までこんな声を出されたことがなかったこともあって、帝人は完全にすくみあがってしまう。そんな、おびえる帝人を前にして、臨也はもう一度大きく息を吐いて。
「それで、何。俺を捨てるって話?」
「っ、違っ・・・!」
「じゃあ、何なのさっきの」
事と次第によっては容赦しないよ、とでも言うように、感情を押し殺した声が言う。謝らなきゃ、でも、何を?どう謝ればいいのか、わからない。
「帝人君」
冷たい眼差しが、帝人を芯から冷やすように射ぬく。ああ、だめだ。ちゃんと正直に尋ねよう。もしも臨也の人生に自分が邪魔になるなら、その時は潔くサヨナラを言わなきゃいけない。キスしてもらって、抱きしめてもらって、それ以上もして、とても幸せだったけれど。
やっぱり、自分では。
この人に何も、あげられないんだ。
「・・・僕、邪魔じゃ、ないすか?」
震える声で問う。邪魔だと言い切られるのは怖いけど、臨也は優しいから、きっとそんなふうに切り捨てることはないだろう。
「・・・どういうこと?」
意味が分からない、とでも言うように臨也が眉をしかめて、手に込められた力を緩めた。問いかける視線に小さく息を吐いて、帝人は正直に尋ねる。
「・・・土曜日、矢霧先生とデートしたって、本当ですか?」
ああ、みっともない。
本当ですかも何も、目撃者がいて不動産屋なんて具体的な場所さえ上がっているから噂になっているのに。それでも今更否定を聞きたいなんて。
大人には大人の付き合いだってあるだろう。そういう物なのだと自分に言い聞かせて心の奥底に閉じ込めておけたなら穏便に済んだのに、どうしても気になってたまらなくて。
「信じてない、わけじゃないのに」
目を見開いた臨也の表情からは、純粋な驚きしか感じられず、だからきっと浮気なんかじゃないって、分かっているけど言葉は止まらない。
「臨也さんのこと、好き、大好き、なのに。なんで、僕なんだろうってずっと思ってて・・・っ、だって僕じゃ、何も臨也さんにあげられない。僕とじゃ、だめなんだって、何度も思って」
「・・・帝人君」
「だ、から。いつまで一緒にいられるんだろうって、最近そんな事ばっかり考えて。そんなの臨也さんに悪いと思うのに、考えるの、やめられなくて・・・っ」
「黙って」
「矢霧先生と結婚するらしいって今日、噂聞いて。臨也さんに限って無いと思うのと同じくらい、ふたりならお似合いなのにって、思っ、」
「黙れよ!」
ダンッ、と鈍い音が響いて、突如吹きつけた風に帝人は思わず目を閉じた。
恐る恐る、ゆっくりと目を開ければ、帝人のすぐ右側の壁に拳を叩きつけた格好のまま、臨也が睨みつけている。その目に、宿る、激情のようなものを読み取って、背筋が恐怖に震えるのが分かった。
酷いことを言ったんだという、自覚はある。
でもやっぱり帝人は心の何処かで、臨也なら笑ってゆるしてくれるんじゃないかという、淡い期待を捨てていなかったのだろう。だから、あなたを信じていません、なんて意味にもなるようなセリフを、このタイミングで告げてしまったのだ。
「臨也、さん」
もう、呆れられてしまっただろうか。