純愛シンドローム
家までの道のりを跡部と並んで歩いた。何も言えなかったし。跡部も何も言わなかった。
学校から一人暮らしのマンションまで十分も掛からない。直ぐにマンションの前までやって来た。
「大丈夫か?」
「跡部こそ、頭とか打っとらん?」
「頭なんか打ってねえよ。何度も言わせんな。
俺は平気だから……お前は……身体だけじゃねえ……だろ……もう落ち着いたか?……」
「……跡部」
えっ?心配そうな顔をした跡部に見つめられた。
跡部はひょっとして自分のことを気にしてくれているのか?跡部は何かに気付いている?
「跡部、俺んち寄っていって。手の傷の手当もせんと」
「こんな傷、舐めときゃ治る」
「舐めときゃって。跡部が……跡部が言う言葉やないで」
跡部らしからぬ言葉が、ふと心を和ませてくれた。
「やっと笑ったな」
「えっ?」
「お前いつも、愛想笑いしかしねぇじゃないか」
跡部はなぜ自分のことをそんなにも気にしてくれるんだろう。
母親さえ忍足の心の奥底を覗こうとは、してくれなかったのに。
「それ、跡部のインサイト?」
笑ってごまかすぐらいしか出来そうになかった。
小さな頃から愛されたという記憶が無いから愛と言う存在を信じられず、でもそんな形の無いものに憧れ続けたなんて。
言えるはずも無い。
自分の部屋の前に立ち、ポケットに無造作に突っ込んでいた鍵を取り出してドアを開けた。
『ガシャ』
無機質な乾いた音だけが響いたその後に、跡部の声が問う。
ドキリとした。
この部屋に自分以外の人間が来ることなんて、あるはず無いと思っていた。
それほど忍足は他の人間と関わることを、極端に拒んでいた。
「いいとこで暮らしてるじゃねぇか?」
「あぁ、ええとこやろ」
でも本当はこんなところに住めんでもええんや、そう言いたかった。
物質的には物心付いたときからずっと満たされていた。
忍足の両親はそれが子供に与えることできる愛情の証だと思っていたのかもしれない。
そんな中、唯一優しかった姉との関係も、侑士を残して彼女が留学した事で終わったと思った。
「入って」
ドアを開け、跡部に中に入るように促す。玄関からちょっとした廊下を通って、リビングに招き入れた。
リビングのカーテンやテーブルクロス、部屋の中は忍足の好きなモスグリーンで統一されていた。
部屋の中はDVD見る時に重宝するだろうりっぱな音響装置の付いた大画面の液晶TVと、
すわり心地の良さそうな大きなソファーが巾を利かせていた。
後は二人がけの丸い天板のダイニングセットだけ。
必要最低限のものしか置いてない、きちんと片付けられた部屋を、
跡部がえらく生活感の無い部屋だなと思ったことに忍足は気付いていなかった。
「そのソファーに座っとって。コーヒーでええ?」
「あぁ」
「なんも無い部屋やろ」
そう言いながら、忍足はケットルをIH調理器の上に置くと、救急箱を持って跡部の所にやって来た。
「跡部、腕かして」
跡部の左腕のくるぶしの所へ血がにじみ出たような跡が残っている。
脱脂綿に消毒薬を二・三度プッシュして染み込ませると、傷口を消毒する。
「本当にごめんな。怪我までさせて。痛ない?」
切ったというよりは、擦ったような傷跡だった。
周りが青く変色し始めていた。
やはり相当な勢いで打ち付けたのだと思う。
「痛くはねえよ」
「ならええけど。俺なんか庇って跡部が怪我でもしたら…」
「俺は大丈夫だ。でも、もしあの時俺が下にいなかったら、お前大怪我してたかもしれねえぞ」
「ほんまや、いくら跡部にお礼言うても足りへんね」
「お礼?そんなものはどうでもいいんだよ」
「えっ?」
「理由だ」
一瞬、跡部が今まで見せたことも無いような暗い表情をしたと思ったのは自分の気のせいだったのか。
「なん?」
なんでも無いように聞き返す。
「お前があんなとこで、階段を踏み外さなきゃならない理由だよ」
「特別何にもあらへんよ。俺が不注意だっただけや」
跡部が自分の嘘に気付かないはずは無いとわかっていても、そう答える以外思い浮かば無かった。
悲しい瞳だった。そう見えた。
「俺には話したくねえか」
「えっ?」
「帰る」
「跡部」
ソファーから立ち上がり、玄関の方へ踵を返す。一瞬冷たい風が通り抜けて行ったような気がした。
なぜそんなことをしたのかわからない。後ろから、跡部の腕を掴んでいた。
「……俺。怖かったんや。ここへ来るちょう前に、向こうでカテキョの女に強姦されそうになってん。
未遂やったけどな。俺、必死で逃げ出して。あの女が帰ったやろう時間になって家に戻ったら。
俺があの女に手を出そうとしたことになっとった。最低やろ。あの女もおかんも。
自分の息子を信じられへん母親っておるんか?終いには浮気ばかりしとる父親の血を引いてるからやと言うたんや」
今まで心の奥底に仕舞い込んでいたことを、一気に吐き出した。心の奥深く。
自分さえも誤魔化すように、押し込んでいた悲しい記憶。
そのことは永久に誰にも話すことなど無いと思っていたのに。
言葉と一緒に流れ出して来た涙が知らずに頬を伝っていった。
跡部は黙ったまま、背中を向けて聞いていた。
「あの子、……あの女と同じ匂いがしたんや。あの女がまた、俺の前に……怖かったんや。
死ぬほど怖かってん……やから……逃げ出そうとしたんや……」
いつの間にかしゃくりあげるように泣いていた。
その身体を振り返った跡部が抱き締めてくれた。
「大丈夫だから。……俺がお前を愛してやる!」
「えっ?」
愛してやると跡部は言ったのか。
優しく暖かい大きな腕の中に身を預けた。それはまるで自分を守ってくれているみたいで。
今までに一度も感じたことの無い感覚。
冷え切った自分の身体が跡部の体温と同化して同じになる。
どうして跡部はそんなことしてくれるん。
「それでお前は極端に人と関わることを恐れていたのか」
それだけ言うと、もう一度身体をぎゅっと抱きしめられた。
「……跡部」
「嫌じゃねえか?」
「えっ?」
「お前の身体に俺が触れても」
身体に触れても平気?嫌じゃない。自分は。たとえ相手が男でも、必要以上に関わるのは駄目になっていた。
だからあの邪気の無い慈郎でさえも身体が拒絶したのに。
跡部は平気?どうして。なんで。自分でさえも、その答えはわからない。
「嫌じゃないわ。跡部なら平気かも……」
「そうか」
「なんでやろ」
「そのうちわかるさ」
「え、跡部は理由知っとんの?」
「さあな」
優しく微笑んでくれる。人の腕の中ってこんなにも温かくて安心できるものだったのか。
今まで感じたことの無いその感覚に忍足の心は少しずつ解け始めたのかもしれない。
愛ってどんなもん。手を出せば掴めるもんなん?
そもそも愛なんてもん。この世に存在しとるん?
みんな無いもんねだりしとるんと違う?
綺麗な愛なんて、あるはずないやん。
そんな愛なんて、欲しないわ……
肌を撫ぜる風がちょっとだけ、優しくなったという感じ。
跡部にずっと自分の心の中に抱え込んでいた闇をさらけ出してから、少しずつ何かが違ってきた。
「忍足、最近明るくなったよね」
「えっ?俺そんなに暗かったか?」