円環
ところどころを瓦礫がふさぐ細い道を迂回しながら走った。
建物は大方が半壊し、まともに建っている人家はまばらで通りは静まりかえっている。地面に打ち捨てられた衣類や本や溶けかけたプラスチックのカップは避け切れないから、タイヤがイカれないと思われるものは踏んでしまう。生きているのか死んでいるのかわからない様子で時おり路端に転がる人間については、細心の注意を払って轢かぬようにする。うずくまり動かない彼らの半分は生きている。
頭上には、赤黒く光る雲が鈍重に垂れ込めていた。今にも空ごと剥がれ落ちてきそうなぶ厚い層の隙間から、ふたつの太陽が照り輝く。ただ、そのうちのひとつは太陽ではない。
三ヶ月前に南アフリカの天文台で観測された地球衝突の軌道を辿る巨大隕石の存在に対して、人間が為しえることはあまりになかった。
各国の偉い学者が首を付き合わせて進路の検証を終え、事態がゆるぎない事実として認知される頃にはすでに、隕石接近の影響から、地震や台風、大津波による洪水が地球のいたるところで頻発していた。
近年ようやく着手され始めていた火星地下都市移住への計画に賭けた人間は少なくないが、急造で開発されたロケットの台数は少ない。当然過半数はこのまま地球へ取り残される。
瞬く間に恐慌状態に陥った社会の機能は、政府の緊急声明からものの数週間で麻痺した。自棄に任せた破壊活動や蜂起がひと段落すると、激昂は少しずつ絶望へ移行していった。今では、暴れる元気のある者はほとんど何がしかの希望を求めてロケット発着場のそばまで行ってしまったから、山深い田舎町のここには薄く青白く刷かれた沈黙ばかりが残る。
この星はもうすぐなくなる。だがこういう形で幕が切られなくても、いずれ近い未来に終わりを迎えたのかもしれない。
海面が三メートル上がり、世界人口が一五〇億を超えたあたりから、資源をめぐる紛争が各国間で絶えなくなった。森林も農地も次第に姿を消し、穀倉地帯などはどこにもなくなった。
食べ物や水の枯渇した途上国からどうしようもなく流れ込む難民により、この小さな島国も限界を迎えていたのだ。疫病や餓死を土壌に暴力の根が隙間なくはびこるなか法律は崩れ、人は武器を持った。
俺たちもまた、国内防衛線の警護という名目で兵役にかり出されていたのだった。ここへ戻って来られたのは、ごく最近の話しだ。
この星が枯れゆくのは、どちらにせよ時間の問題だった。それでも主と彼の父は、自分たちの生まれたこの星を、誠意をもって愛した。
ひび割れたコンクリートの上を走る車体が時おり大きく揺れる。座席から尻が浮くほど揺れるので一応横目で隣をうかがうが、金具が壊れかかったシートベルトを律儀に締めた主は、特に気にする様子もない。前方から差す歪んだ光を浴び、眩しそうに目を細めていた。朝日でも夕日でもない落ちる陽に照らされた頬が、火照ったようにあかあかしている。
そうしていると不意に、昔のことを思い出した。何百年も前の、主が今の姿かたちではなかった頃のことだ。
そうだった、あのときもまた、場所は日本なのであった。彼は昔、両手足に炎の輝きを宿し、熱っぽい瞳と頬で動乱の革命期を一足飛びに生き抜いていた武家の青年だった。
俺はどうしたことか、昔の自分のありようが断片的にわかる。今の自分として生まれてくる前の世で、どこへ住みどういう姿をしていたか、誰と共にあったのか。正確には、人生のある地点を境に突然見えるようになった。
もう十年以上も前、異様に残暑が厳しく長かった夏の終わりのことだ。
当時、個人タクシーの運転手で細かい日銭を稼ぎその日をしのいでいた俺は、夕暮れどき、ひどい豪雨に見舞われた。予想外の天気に、傘を持たない多くの人々が鞄や腕で頭をかばうようにして走っていた。
雨を避ける客を拾おうと通りに出た俺を、日に焼けた固そうな細い腕が拾った。身ひとつで雨に打たれるのを委細かまわず、やけに真っ直ぐ生真面目に伸びた腕だった。
車をとめて乗り込んできた、シャンプー途中の犬みたいにずぶ濡れの客に、俺は助手席のタオルをどうぞと放った。シートに水たまりを作られてはたまらない。
「ああ、すまないな。どうもありがとう」
かぶったタオルの下から聞こえた声は幼く澄んでいて、伸びた背丈の割りには子供なのかもしれないと思った。
何気なくバックミラーをのぞきこむと、顔を上げた客と目が合った。子供と大人の境目のような不器用な曖昧さを表情に残した少年は、見られたことがわかると育ちの良さそうなこざっぱりとした笑みをこぼしてみせた。
ぎこちなく微笑み返した俺はその瞬間に、諸手を上げるような心もちで、これはお手上げだ、と思った。やっちゃったよ。まいった、まただ。
そしてそう考えたことを不審に思った。なぜ自分が唐突にそんなことを考えたのか、全くわからなかったからだ。彼は知らない人間だった。
指定された埠頭のターミナルへ指定時刻より十分早く車を着けた俺に彼は、「ずいぶんと運転がうまいのだなあ」と、運転を生業にしている人間に対してはおよそ的外れな感心をした。そして貸したタオルを首に引っ掛けたまま、忘れて持って帰ってしまった。
雨が上がり、海洋の彼方に沈む夕日が迫るような赤い色合いを投げかけていた。船着場へ一目散へ駆け行く背は瞬く間に夕焼けにのまれ、すぐに見えなくなった。なぜか煽られるような焦燥感があったが、理由がないので困惑した。
以来、俺は昔のことをしばしば思い出すようになった。思考の隙を縫い、信号待ちの短い空白に。または明け方の夢で。
それから半年後に再び偶然彼と出会い、洗ったタオルを返され、誘われるがままその家で運転手を勤めるようになる頃には、恐るべきことにもう彼は他人ではないのだった。