円環
「多少のブランクがあっても、腕は落ちぬものだな」
「頼むよほんと……。無茶すんなよ。心臓がいくつあってももたないよ」
「死ぬものか、こんなところで」
主は言い、背もたれへ雑に体を預ける。それから、足元に落ちた賞味期限の切れたビスケットのパッケージを破って食べた。しけっているでしょう、と問うと頷いたが、もそもそと、げっ歯類みたいに無心に食べていた。
ここから入り組んだ廃屋街に差し掛かるまでは、しばらく何もない更地が続く。俺はかじりついていた運転席から身を離し、片手を軽くハンドルに乗せる姿勢に切り替える。
「よく考えれば、お前がいなければ俺はうちから離れることもままならないな」
食べくずを膝の上にこぼしながら、主が言う。俺は頷く。
「そうですよ」
「運転が出来るということは、いいものだ」
「そうでしょう、そうでしょう」
俺はひとつも否定しなかったが、たとえばこの先に続く時間が多くあり、その過程で車がなくなって俺がいなくなったとしても、彼はそれなりにうまくやっていくことを知っていた。だからそういうふうに添われることは、嬉しくもあったが面映かった。そして少し悲しかった。
この人が年を経て、近づく終わりを感じ取り、無自覚に少しだけ人のため速度を落とすことをおぼえたように、俺もまた長すぎる年を経てずいぶんと心弱くなった。本当はもう、ここで静かに朽ちてもいいと思っていた。それは流れのままゆるゆると緩慢な、ある意味で魅力的な終わり方にも思えるのだった。
だがそれは、結局続かなかった。偶然に可能性を拾い、バイクの男に襲われたときにはっきりした。
俺はまだこの人を生かして駆けさせたいのだ。たとえ失望されても、傲慢に、自分勝手に。
そして願わくば、子供でも物語でもなんでもいい、形のあるものを次に残して繋げて欲しかった。出来れば戦場以外の場所で、何かを見つけて欲しかった。彼や彼の父が愛した地球の緑は火星で生きることは出来ないかもしれないが、品種を改良すれば地に根付くかもしれない。
こんなことを数百年前当時の主に仕えていた自分が聞いたら、笑うだろうか。憤るだろうか。それとも複雑に微笑んで同意をしめすのだろうか。
「そういえば、チケットはどうした。拾ったロケットの……」
「ああ、あの騒ぎだもの、どっかに落っことして来ちゃいましたよ。まあ、いいでしょう。一枚こっきりあっても仕様が無いしね。俺も使う気はないからね。それより膝、またボロボロこぼしてるよ。食べ方が汚い」
主はむっとしたようだった。
「こんな粉っぽい物、散らばさずに食べるのは無理だ。齧れば端から崩れる」
「あはは、すげえ言い訳だな」
俺は笑い、ポケットに滑り込ませた指先で咄嗟にしまいこんだ小さな可能性に触れる。滑らかに固い金属のカードはずいぶん軽く、ひっそりとしている。