忘却の徒
まぶたが全くゆるまない。布団のなかから首だけ出して天井のはりを睨んでみても、まばたきを忘れそうなほどに意識の芯がさえざえしている。
これはすごい、と沖田はひとごとのように驚いていた。いつもなら床につくかつかないかのうちに、木目もはりも歪んできて睡魔に視界をくるまれてしまう。それなのにきょうは、眠気という眠気を魔物に食われてしまったように眠くない。
きっと、睡魔とは逆の魔物がどこかにいるのだろう。眠気を与えるのが魔物なら、奪っていくのもまた魔物だ。こちらの都合にはおかまいない。傍迷惑なことだ。
沖田は仕方なく床から這い出し、暗闇のなかを手さぐって障子を開けた。
庭に面した廊下には、間隔をあけて点々と常夜灯がともされている。厠や台所まで、あるいは門前まで、この僅かな灯りでじゅうぶんに歩ける。
とりあえず台所に行って、コップと酒瓶をくすねてくるところから始めよう。このさい料理酒でもかまわない。
肌寒かったので寝巻きの上から綿入れをはおり、足音をひそめて沖田は廊下へ踏み出した。
空気に湿り気がのこっていたが雨はあがっている。厚い雲の切れ間から、もうすぐなくなりそうな下弦の月が見え隠れしていた。月は細いうえすぐ見えなくなるので、月あかりの恩恵はほとんど得られない。
そのとき、灯りと灯りの間のくらがりにまぎれるようにして何かがみじろいだ。眠気を食っていった魔物かもしれない、とばかばかしくも冷静に沖田は考えた。
だが、衣擦れの音がした。縁側に誰かが腰掛けているのだった。
すこし近寄ると、雨に濡れた土匂いに煙の匂いがまじった。沖田は、しけって火のつかなくなった火薬を思い出した。バズーカに篭める弾薬の保管を怠るとすぐそうなる。
「厠はこっちじゃねえぞ、逆だ」
座っていた男は、こちらを向きもせずに言葉を煙と一緒に吐き出した。
「用足しに起きてきたわけじゃねェんで」
「じゃあ、また怪しげな儀式だの呪術だのじゃねえだろうな」
暗くて表情が見えがたかったが、それが心底うんざりした声音だったので沖田はすこし楽しくなった。
「ああ、それもいいですねィ。雨もようやくあがったことだし」
「ばかいってんじゃねえよ。とっとと寝やがれ。そんな宵っぱりだから、昼間起きてらんねえんだよ、お前は」
「自分は酒盛りしてるくせに」
雲が切れたときに、土方の脇へ置かれている銚子と杯が目に入った。陶器の表面に指先でふれると、冷や酒だった。一升瓶も横にどんと置いてあるあたり、丁寧なのかぞんざいなのか、わからない飲み方だ。
「俺がお前みたいに、昼じゅう寝こけてたことがあるか? ねえだろうが。ガキはもう寝る時間なんだよ」
さりげなく引きよせようとしていた銚子を取り上げられた沖田は、やれやれと思う。
今夜はたぶん、ツイていないのだ。酒はもらえない。飲もうとすれば怒られる。庭からは、客がまだ帰らない。
つい先刻からまた感じている視線に、沖田は顔をそとに向けた。今度は、千鳥に並べられた置石のむこう、夾竹桃の垣根のかげになっているあたりだ。
土方も気付いている、おそらく。 ただ彼は庭には目をむけず、重たい雲がたちこめる景気の悪い空にばかり視線をさまよわせている。星もろくに見えないというのに。
「あれってなんなんですかィ。やっぱり、このへんで死んじまった奴の亡霊とか? やだなァ。俺ァそういうの、信じないほうだったのに」
沖田はそう、いってみた。土方はやはり黙っている。
ひっそり怯えていたら面白いなと思ったけれど、そういうこともないようだった。黙々と、ただ喫煙に時間を費やしていた。
「死神かなんかなんですかねェ。まだ魂持ってかれるほど、弱っちゃいねえんですけど。ああ、それか、自縛霊じゃなくて、斬っちまった奴の怨念とか。それじゃァ、ひとりってえのもおかしい……」
「総悟」
まだ続く言葉を、途中で遮られた。
「俺にァなんもみえねえよ。お前にも、みえねえ」
苛立ちや焦燥や恐れなんかが声に含まれていれば、対処のしようもあった。でも遮断はみごとに無感情であったので、肯定を余儀なくされて沖田は押し黙る。
そもそもあんたがみえるって言い出したんだ、という非難が、どこかからせりあがってきた。どういうことかと自分で驚いて、考えて、不意に思い出した。
むかし縁側で酒を飲んでいた、庭に客がくる、といった男は、土方なのだ。
どうして忘れていたのだろう。事柄は、おぼえていたのに。沖田は不思議に思う。でも思い出したことは、口には出さなかった。
土方はたぶん、「みえないこと」にしたのだ。いつからか、それを。
沖田は縁側の縁にしゃがみこみ、空も地面も見ずに真正面を見据えた。
たとえば今、庭履きをつっかけてあそこまで歩いていっても、そこに何もないことを知っている。
あれに実体はない。幽霊や物の怪や、そんなものですらない。そういう類いの得体のしれなさだったら、土方はもうすこし違ったリアクションをするだろうから。
じゃあ、あれは?
沖田は抱えた膝の上に顎を乗っけて、ぼんやり考える。
ようするに、爪の間に残って取れなくなった血痕のようなものではないか。
普段は気にもとめない。武装警察という名前の傘と、黒地に金糸の縁取りをした洋装を与えられ、それらを身につけてしまえば斬ることは必然だからだ。生きることとほぼ同義語だ。そこに感傷はない。あるいはかつてあったのかもしれないが、ひらたくのばされて、もっと大切なものの下に埋まってしまった。
でも生きているかぎり、からだは意思とは無関係にさまざまなものを拾う。落とされたものはときに、からだへ残る。
風呂へ入っても、爪のあいだで乾いて固まった血を落としそこねることがある。死体のつめたさは忘れてしまったのに、合わせた刃の先にあった目の異様な生命力が、まぶたの裏に残ることもある。
そういうものを知らず吸収しているうちに、きっとみえるようになるのだ。あの、黒い客は。
きちんと筋道立てて、こういうことを考えているわけではない。 沖田は頭ではなく、肌でそれを感じている。
自分や土方にみえて、近藤にはみえないということだけがわかる。呆れるほどまっすぐですこやかな近藤の魂は、よくないものを寄せ付けない。
あれは危険だ。沖田は本能的に悟る。
みえつづけるとたぶん、からだが重たくなる。
だから土方は、みえないことにしてしまった。おそらく自分よりずっと昔から、みえているであろう、それを。
「一杯だけやる。これ飲んだら寝ろ」
ひとりで飲んでいた土方が、唐突に酒を満たした杯をよこしてきた。
杯の色は闇に溶け込んでほとんどわからなかったが、ろくな色ではないように思えた。きっとまた、趣味の悪い赤色にちがいない。
目の前につきつけられたちっぽけな杯を取り、沖田は唇をつけた。
こんな少量、水代わりにもならないと思って飲んだのに、酒は喉が焼けるように力強かった。端麗辛口、なんてものではなかった。舌がぴりぴりした。どうしようもない味だった。
「こんなちょっぴり、飲んだ気がしねェや。もっとよこせィ」
一升瓶に伸ばした手を、アル中め、とすげなく払われた。