彼の歌声
歌だった。彼がよく歌っていた、歌なのだろうと、がたがたのメロディに耳を澄ませる。悲しみに染まった歌。優しく、けれど誰かに畳み掛けるように紡がれる音律に、無いはずの心がきゅっと絞られるような感じを覚えた。
不意に、レンの歌が止まる。彼は顔を上げて空を見ると、小さな声で雨、とだけ呟いた。
「雨が降ってきた」
彼がそういいきると同時に、おれの頬にも雨粒が一粒、かかった。空を見上げてもどんよりと垂れかかった雨雲は見られないのに、どこから雨が降ってきているのかよくわからなかった。
雨。傘は。持ってきたはずの傘を捜す。無い。そうだ、家へ帰ったとき、置いてきてしまったじゃないか。
顔からさっと血の気が引くのがわかった。無意識のうちに、抱えた服を強く掴んでしまう。
帰らないと。雨に濡れるわけにはいかない。いや、多少の雨なら良いけれど、もし土砂降りの雨になったのなら。おれは壊れてしまうかもしれない。レンのように。
レンの瞳がすっと細められて、おれを強く見据える。内心を見透かされたような気分に陥って、身体がびくりと震えた。唇が震える。頬に雨粒がまた、落ちてきた。
「……雨が降るよ。帰らないと。傘、持っていないんだろう」
「で、でも──」
帰りたい。帰らなければならない。帰らなきゃ。どこかで叫ぶような声がする。帰れ。帰れよ。帰れ!
でも、おれが帰ってしまったら、目の前のレンはどうするのだろう。またベンチに座って、雨に濡れて、じっと前を見据えて座っているのだろうか。そんなの放っておけるわけがない。
手を伸ばして、レンの腕を掴む。手の平に、彼の濡れた肌を感じた。
「帰ろう。おれの家に行こう」
「……いや。いいよ。ぼくはここに居なきゃいけないんだ。ごめんね」
掴んだ手の平に、レンの手の平が重ねられる。しっとりとしていて、吸い付くような感触を覚えた。彼の体温が、じんわりと滲むようにおれの手に広がっていく。
「どうして」
髪の毛が、落ちてきた雨粒によって濡れる。ぽつりぽつりと、雨は少しずつ、けれど確実に雨脚を強めていく。土砂降りになったら、と思うと身体が震える。
レンは俺の手の平、指をほぐすように一本一本自身の腕から外すと、困ったように、けれど嬉しそうに──どこか胸をはるような表情で言う。
「マスターがここで待っていろって言ったから」