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彼の歌声

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 え、と変な声が出た。レンは構わずに続ける。

「だから、ぼくはここでマスターを待っているよ。ごめんね。ありがとう、レンくん」

 レンはそう言うなり、ベンチにいつものように座り込む。傍で立つおれを見上げて、いつものような微笑を浮かべて、手を振る。
 意味がわからなかった。待っていろって。マスターに言われたって。どういうことなのか、理解できなかった。

「はやくいかないと濡れちゃうよ。濡れたら、レンくんも壊れちゃうんじゃないかな」

 じりじりと後退する。笑顔で恐ろしいことを言うレンが怖かった。いや、怖くなかった。矛盾した感情が回る。怖くない。彼は怖くない。怖いのは、壊れるという事実だ。壊れてしまったら。
 今までに歌った色々な曲が頭を回る。瞬間、おれは彼に背を向けて走り出していた。

 連日の雨でぬかるんだ地面に足を取られそうになる。叫びそうになった。コンクリートに広がる水溜りに雨粒が落ちて波紋をつくっていく。髪の毛が濡れる。髪の毛から伝うしずくが頬を濡らす。
 変な息が出る。変な声が出そうになる。瞳が雨に濡れたのか視界がにじんだ。はやく家に帰りたかった。そのことしか考えられなかった。早く帰りたい。帰りたい。帰りたい。

 虹の姿は、いつのまにか消えていた。


6.

 少しの雨に濡れて帰ってきたおれを、マスターは驚きながらも迎え入れてくれて、次の日、そのままメンテナンスセンターへ向かった。異常は見られなかった。
 ボーカロイドにとって水は天敵のようなものだ。もちろん、風呂にだって入れない。汚れた場合、濡れたタオルで身体を拭き、そのあとしっかりと乾拭きをして綺麗にするしかない。髪だってそうだ。人間のように食料を必要とすることもないし、飲み水だって必要ない。この口は、飲み水を煽るために作られたものではない。歌をうたうため、言葉を発声するためだけに作られたものなのだ。

 レンを思い出す。彼がどうなっているのかだけが、メンテナンスしている間、ずっと心配だった。
 逃げ出したと思われたかもしれない。実際、おれは逃げ出したのだ。雨の恐怖から、彼の傍から。もう会いに行きたくない。けれど会いに行きたい。相反する気持ちがせめぎあって、どうにかなりそうだった。
作品名:彼の歌声 作家名:卯月央