彼の歌声
何分レンを凝視していたのだろう。困ったような表情を浮かべて、彼がもう一度おれの名前を呼ぶのと同時に、どこかへと飛び去っていた意識が舞い戻ってくる。
「お久しぶりって、なんで、濡れて」
「……ここに居たから。ずっとね」
何でもないことのように綴られた言葉に、寒気がした。ずっと? ずっと、っていつから? ずっと、ってどういうことだ。疑問が胸中に浮かんでは消えていく。そのどれも言葉に出来ず、おれは踵を返した。背中にレンくん、と呼びかける声が聞こえた。それを振り払うように、ぬかるんだ公園の地面を、水溜りに濡れたコンクリートの道を、走った。
なんで、あんな、なんで。声が。声が──、声が、擦り切れたテープのような音だった。ところどころでイントネーションが変わって、声の高さまでもが変わって、何を言っているのか、おおよそ注意して聴かないと人間には何を言っているのか、確実に聞き取れないような声だった。
なんでだよ。おかしいじゃないか。なんで公園に居るんだよ。なんで、あんな、トーンの低い、綺麗な声が、あんな酷い──しゃがれたような声になっているんだ。
家へ着くや否や傘を放り出し、玄関の扉を強く開け放つ。マスターが驚いたようにこっちを見る姿が目に入った。ヘッドフォンをつけていた。作曲も佳境に入っていたのかもしれない、マスターは若干怒ったような表情を浮かべて、けれどすぐに驚きに顔を染め上げておれを見る。
「どうしたんだ」
「れ、レンが、レンが、マスター、何か拭くものと……、ふ、服! おれの予備の服をちょうだい!」
「…………」
マスターは目を見開いておれを見つめた後、わかった、とだけ言って直ぐにタオルと予備の服を用意してくれた。予備の服──といっても、おれのいつも来ているセーラー服とハーフパンツだけなのだが、それでもきっとしとどに濡れたレンにとっては必要だろう。着替える必要がある。身体を拭く必要だってある。そうじゃないと、皮膚がカビに侵食されてしまう。
マスターから渡されたタオルと予備の服を胸に抱きしめて、感謝だけを手早く述べてそのまま家から出て行く。マスターが、後で説明しろよ! という声が、追ってくるように耳朶を打った。