路地裏の宇宙少年
カノンが黙ったかわりに仲間が彼の話をするのを聞いて慌てて視線を移すと、すぐにその会話を遮った。それならば少しだけ彼の行動がわからなくもない。もしかして、と思った。もしかして、彼が本当はサッカーをしたいのだとすれば。
「おい、カノン?部活行くぞ?」
急に食いついてきたかと思えば珍しく考え込むように黙ってしまったカノンに、仲間の一人が訝しげな顔をして声を掛ける。しかしカノンは返事をしなかった。彼らは顔を見合わせるが、カノンが動かないのを見てそれぞれの荷物を抱えると部活へと向かった。取り残されたカノンは、彼らとは違った方向に走り出す。鬼道が消えた方へ向かって。
***
カノンは、暗闇の中に立っていた。いや、まったく何も見えないわけではないと目を凝らす。残念ながら今夜は満月ではないから足元が辛うじて見える程度であったが、もしカノン以外の人影があればわからなくはないと思った。半分ほど欠けた月を見上げて、少し湿った空気を吸い込む。たまに薄い雲が月明かりを遮り、そのたびにカノンを不安に駆り立てた。彼がここにやってくる保証などなにもない。それでもどこかで、彼がこの賭けに乗ってくる気がしていた。
少し大きめの雲が月の前を通り過ぎて、再びわずかに視界が広がる。グラウンド脇の小道から芝の上を滑るように降りる音がした。すぐにそこに目を凝らすと、月明かりを受けたゴーグルのレンズが光った。
「鬼道?」
呼ぶと、その顔がカノンの方を見てゆっくりと近寄った。少なくともこの行動は無駄にはならなかった。静かに安堵の息を吐いて、顔を上げるとゴーグル越しでも彼が不機嫌そうだということはわかった。
「こんな時間に呼び出してなんの用だ」
彼の声は昼間より随分と冷静で、そういえば彼から話し掛けるのは初めてだと気付く。別に彼を不快にさせる気はなかったのだが、すでに昼間の一件で彼はカノンに対して否定的な感情しか抱いていないことは明白だった。彼をここに呼んだのはカノンの一方的な理由だ。あのあと、追いかけて捕まえた彼にカノンは「夜に、グラウンドで」とだけ言い放って逃げるように練習へと向かった。おかげで練習中はまったく集中できずにいて、周囲からの不評を買ったばかりだ。まさか一日に二回も責められる日が来るとはと少し気を落としながら母親に遅くなると連絡すると、嬉しいことに夕飯だけは残しておいてくれているらしい。あまり遅くならないと告げたものの、彼に時間を言わなかったことは失敗だったと思った。
呼び出しておきながら何も言わずに百面相をしているカノンを見て、思わず鬼道の眉間に皺が刻まれる。やはりきたのは間違いだっただろうか。そもそも何故彼の誘いに乗ってしまったのかわからない。我ながら変なところが几帳面だとつくづく思い知らされた。どうやら曽祖父譲りらしいこの性格は、あまりいい結果を生んだ覚えがない。
「…用がないなら帰るぞ」
「あ、悪い、そういうつもりじゃ」
カノンは慌てて意識を今に戻すと、少しだけ彼に近付いた。相変わらずゴーグルの向こうは見えない。
「あのさ、一緒にサッカーやらねぇ?」
すぐに返事はなかった。むしろ彼の眉間の皺は一層深くなり、しばらくカノンを見つめたまま時間が流れる。お互いの唇は同じように真一文字に結ばれていたが、理由はほぼ正反対に思えた。何度目かの雲が通り過ぎて明るくなると、沈黙に耐えかねたカノンが口を開く。
「気になって調べたんだ。お前の家ってずっとサッカーやってるだろ」
彼が驚いたのがわかった。むしろ戸惑っているような動作にも見えて、カノンはポケットに押し込んでいた端末を取り出すと古い新聞記事の画像を表示させた。ずいぶんと古い日付だ、と思った。彼に見えるように少し近付いたが、彼の視線は記事を見ているのか自分を見ているのかよく分からない。ただ、レンズに反射した光が揺らいでいるように見えた。
カノンが珍しく資料室に言ったのは練習を終えたあとだった。いつも通り火が落ちる前に練習は終わり、カノンはクールダウンするよりも早く資料室へと向かうと、過去のサッカー部の資料を探した。見慣れぬ来客に資料室の担当教師は少し怪訝な顔をしたが、それほど気にすることでもなく「サッカー部の資料で」とだけ断って端末の一つを借りた。なんとなく、鬼道の名を出してはいけない気がした。けれどもその珍しい名前は意外にもあっさりと見つかって、カノンは少し拍子抜けしながら二十年ほど前の記事を見る。まだサッカー部が大会で活躍していた頃の記事だ。恐らくそこに映っている姿は彼の父親だろうと思ったが、カノンが知っている彼と似た部分を探すことは難しかった。
「これ、お前の父親?」
「…ああ」
低い答えが風に消えそうだった。もし記事に書いてある「親子三代で活躍」という文章が正しければ、彼はカノンと同じくサッカー一家に育っていることになる。初めて出会ったときの違和感はおそらくこれのせいなのだろうかとカノンはふと思った。何故彼がサッカーとはなれたところにいるのか。
「だと思ったんだ!お前ホントはサッカー好きなんだろ!」
迫るように畳み掛けると彼は思わず顔を逸らした。だがすぐに顔を上げるとカノンを突き放すようにその肩を押す。
「違う、俺はサッカーなんか、嫌いだ」
なんでだよとすぐにカノンは彼の発言に食らい付く。父親がサッカーをやっていれば自然にボールとの生活が当たり前になっているはずだ。少なくともカノンは物心付いたときからそうだった。それが当たり前で、なんの疑問も抱かなかった。だから彼もきっとそうだったはずなのに。
「そんなわけないだろ!一緒にサッカー」
「お前に何がわかる!」
カノンの誘いは彼の叫びに消され、驚いてその顔を見る。だが彼はすぐに顔を俯けた。少し強くなった風が、雲の流れを速くしていた。グラウンドの土がたまに砂塵のように舞い上がったが、暗闇ではいつもより気にならなかった。何故、とは聞けなかった。なんとなく光を受けない彼のゴーグルの向こうの瞳が泣いているように見えた。カノンが思わず手を伸ばそうとしたのを彼は簡単にあしらう。払われた手の甲が少し熱いと思っているうちに、彼は軽い足音を立ててグラウンドから走り去った。再び静寂に包まれて、カノンは彼が走り去った先から空へと視線を移す。
ただ、彼と一緒に戦えたら楽しそうだと思った。本気でサッカーができると思った。それだけだったのにと呟くと、彼の顔を思い出してカノンは小さく息を吐いて帰路へと着いた。
***
夜半から強くなった風は、昼休みになっても曇天の下を吹き荒れていた。雨はまだ降っていなかったが、夕方から降りだすと今朝の天気予報が告げていた。屋上の扉を開けると、カノンの制服が風を受けてはためく。昨夜よりさらに湿っぽい空気が嵐の予感をさせた。おそらくこの様子では今日の練習は中止だろう。試合当日が雨だったらということを想定した練習はした覚えがないから、今日に限ってということはありえない。それを不満に思っているのはおそらくカノンくらいだろう。
空から視線を移して屋上を見渡す。すぐに探していた相手は見つかった。いつもならもう少しは人がいても良さそうなものだが、この天気のせいか彼以外に人影は見当たらなかった。
「鬼道」