路地裏の宇宙少年
彼は振り向きもせずに屋上の柵に頬杖をついて校庭を見下ろしていた。彼のクラスメイトに言わせればいつものことなのだろう、屋上に来る前に寄ったAクラスでの話を思い出す。彼らはカノンを奇異の目で迎えた。その居心地は決して良いものではなく、さらに教室の中に彼がいなかったせいで余計に憂鬱になった。入り口近くにいた生徒を捕まえて聞くと、カノンのことを訝しく思いつつも彼が教室にいる時間は少ないのだと教えてくれた。けれどそれでも定期考査で毎回首位を取り続ける彼は何か特別なのだろうか。今の時間ならおそらく屋上だろうと告げられて、カノンは軽く礼を言ってきた。
「お前のクラスのやつにここだって言われたんだけど」
彼の隣に立って、同じように校庭を見下ろす彼の視線を追いかけようとしたが、彼はいつの間にか今にも泣き出しそうな空を見上げていた。からかわれているのだろうかと思いながら同じように見上げて、隣の彼の顔を盗み見る。相変わらずゴーグルのせいでその表情は読み取れない。
「なあ、なんでサッカー嫌いなのか、聞いてもいいか?」
「…なんでわざわざ俺に絡むんだ」
予想外の返答にカノンは一度驚いて、しかしすぐに彼がようやく自分を認識してくれたことに思わず口元が緩んだ。鬼道はそれを目だけ動かしてみたのか、すぐに気持ち悪いやつと呟く。彼は再び空を見上げたがカノンは彼から目を逸らさなかった。その横顔が空と同時に泣き出しそうな気がしたが、その前に彼の唇が動く。
「昔は、多分お前くらいサッカーが好きだったかもな」
いつの間にか、自分の感情とは関係ない世界になっていた。すべてにおいて常にトップであることを要求される世界にいた。次第にボールを蹴るたびに息苦しくなるのがわかった。それでもまだ好きでいられたのは自分が活躍できていたからだった。常にチームの中心で、自然とボールが集まってきていたから面白いほどに活躍していた。
彼の手が、その耳に触れてずっとつけたままだったゴーグルを外した。鳶色の瞳は珍しい色ではあったけれど、彼にはふさわしい色だとカノンは思った。ただしそれは片目だけだ。もう一方の目が白濁しているのが見えて思わず顔を歪めた。それが、彼がフィールドには立ってもサッカーができない理由だとすぐにわかった。
「これでわかっただろう、俺にはもうサッカーはできない」
すべてを失った日をいまだに覚えている。最初は些細な違和感だった。左目の視界が狭くなり、それでもまだ見えないわけではなかった。ボールを追えないわけではなかったから、何の問題もないのだと思っていた。次第に焦点が合わなくなり、片目がボールを追えなくなるまで時間はかからなかった。あまりにも残酷な朝だった。曽祖父以来だと言われた鳶色の目は醜く、誰もが同情と哀れみを何度も繰り返す結果になった。それまでがあまりにもうまく出来すぎていたのだと思った。ボールを蹴ることを捨てるしかないと、半ば強制的に今まで一度も手放すことはなかったユニフォームを処分してしまうと虚しさに襲われた。
「お前にわかるか、あの絶望感が」
それまで穏やかに語っていた彼が急にカノンの肩を掴んだ。その痛みと勢いでカノンは思わず体を引く。けれども彼の瞳はカノンを見つめていて、目を逸らせない。彼の過去はカノンには想像できないものだから痛みなどわかるはずもない。それでも、想像するだけでも彼の心の叫びは十分に感じ取れた。
「自分がどれだけ焦がれても、もう二度とできないつらさが」
自分がいなくても、周囲の同級生は今まで通り試合に出て、順調に勝ち上がっていた。元からそれなりの力を持っていたチームだったから、司令塔が変わった程度では統制は乱れはしなかった。そして彼を差し置いて勝利を何度も味わっているのを見るたびに胸の奥から抑えきれない感情があふれ出した。何故、自分がその輪の中心にいないのかと何度も問ううちに感情は簡単に変化してしまった。
「サッカーなんて、なくなればいいんだ」
彼の呟きに、カノンは思わず奥歯を噛み締めた。自然と右手が肩を掴んでいた彼の手を引き剥がして、それから彼の顔を勢いよく叩いた。手の平がジンと熱くなって、彼の顔を見るとその左頬が赤くなっていた。何が起きたのかわかっていない彼はしばらく呆然とカノンを見ていて、しばらくしてから自分の手で頬を抑えた。
「俺はそれくらいでサッカー嫌いになったりしない!」
「お前に何がわかる!」
反射的に噛み付くように彼は返した。コンクリートのタイルが並んだ足元に落ちていたゴーグルに、水滴が当たった。それと同時に二人の顔にも空から落ちてきた水滴が当たったが、それを拭うこともせずに睨み合った。大粒の雨は生温く、すぐにその数を増やした。どちらが先に手を出したかわからないが、気付けば彼の服を引っ張っていて自分の髪を掴まれていた。
「そんなのお前の八つ当たりだろ!」
「お前に言われたくない!」
どちらかが体勢を崩して、コンクリートの上に転がった。すでに雨で色を変えてしまっていたそこから服を通して冷たい感触が伝わる。それでもカノンは構わずに彼の頬を抓って転がった。仕返しとばかりに彼の手が自分の顔に触れそうになって慌てて首を振ると彼の伸びかけた爪が首筋に赤い筋を作った。たまに口の中に雨粒が落ちてぬれたにもかかわらず、叫びすぎて喉が熱を持ち始める。すでにグラウンドにいた生徒は校舎の中に入ってしまったのか、雨の音と彼らの罵倒以外何も聞こえなかった。
「どうせ俺の気持ちなんて誰にも…!」
彼が叫んだところで空が急に光って、二人は思わず息を詰めた。心が準備するより早く唸るような音がすぐ近くで轟いて、カノンは彼の上に乗ったままその音の方を見た。気付けば彼も同じ方向を見ている。それでようやく、自分たちが濡れた上に汚れていることに気付く。
「…悪い」
カノンは慌てて彼の上から降りると、起き上がった彼に手を差し出した。けれども彼はそれを無視して立ち上がる。また短く光が瞬いて、二人は顔を見合わせるとすぐに屋上の入り口へと走った。明かりをつけない階段は薄暗く、時折扉にはめ込まれたガラスの向こうで光るのが見えた。踊り場の壁に凭れて座ると、彼がすぐ横に座った。あまり通る人がいない成果埃がたまった床に、制服から流れ落ちた雨が水溜りを作る。二人で靴を脱ぎ捨てると、足を伸ばして少し大袈裟に息を吐いた。
「…馬鹿馬鹿しい」
彼のつぶやきは静かな階段に響く。再びゴーグルをつけようとして、濡れた物を拭く手段がないことに気付いて止める。これが春先だったら二人揃って風邪をひいているところだ。いや、そんなに体力が落ちているつもりもないが、と心の内で追加する。隣を見ると自分よりも雷が苦手らしいのか、屋上の扉を真剣に見ている。それを眺めているのが面白くて、思わず口元が緩んだ。
「おい、鬼道…?」
雷の音が少し遠くなって、カノンは隣にいる彼を見た。軽く閉じられた瞼は、カノンが呼びかけても開く様子を見せなかった。
***
僅かに目を開くと眩しくて、思わず目を細めた。白い世界だ、と思ったがそれがすぐに白い照明と白い天井なのだと気付く。普段ならばゴーグルのせいで強制的に色が付けられているのに、自分の顔に手をやるとすぐに自分の瞼に触れた。
「鬼道、起きたか?」