空 宙 烙 華
陸軍内の集合浴場に向かっていると、途中でケイに会った。
向こうは待機指示中だろうか。何にせよ、昨日の今日で会うとは思わなかった。むしろ、会いたくなかった。
「あー。昨日はありがとね?」
なんて。思ってもいないことを言うから、無視を決め込んで歩いた。
「隼、顔に出すぎデショ?」
分かり易すぎ。後ろから、クスクス笑う声が聞こえる。
「でもね。ほんと感謝はしてるんだよ」
今の会話の流れでは、いまいち素直に受け取れない。
「そうかよ」ぶっきらぼうに言葉を放つと、いつの間にか隣に並ばれた。
自分よりも濃い黒髪が揺れる。軍帽が邪魔をして、表情が読み取れない。少しだけ色づいた葉が、風に舞っていた。
そもそも。何故いきなりこの男は、酒場に立てこもるなどという暴挙に出たのか。「兄者が変な店に連れて行かれた!」とチハたんが血相変えて来たから心配して迎えに行ったというのに。
「だって。隼のおかげで上手くいったんダヨ??」
何の話をしているのか分からない。分からないが、この男の機嫌がいいのはいいことだ。
この男の機嫌が悪いときは、たいていシキシキの機嫌も悪く。それに怯えたチハたんが余計なことをして、まともな作戦が成り立たなくなるのだから。
軒先の暖簾をくぐって尚、横にはケイがいた。ケイの腕にも、手拭いと木桶。視線が合うと、嫌な笑顔を向けられた。
そこで初めて、目的地が同じだったということに気づいた。
***
「お前…なんだそれ…」
シャツのボタンを外してやろうと振り返ったら、ぎょっとした。思わず、ケイの首を指差した。
鬱血に近い赤。自分も、知らないほど初心ではない。しかしその対象は、自分の中ではもっと違うものだ。
「あ。つけたんだ。珍しい」
鏡の前まで歩いていくと、自分の首をしげしげと見つめた。悪気が微塵も感じられない。昨日の今日で、これか。
「不純異性交遊は、シキシキから禁じられてるだろ…」
また機嫌が悪くなったら、今度はどんな連帯責任を問われるか分からない。視線を落として、ツナギの金具に手をかけた。
「だってそのシキシキがつけたんダヨー?」
思いがけない言葉に、棚に頭をぶつけた。思わずうずくまる。
大丈夫―?なんて声を掛けられたが、笑いを堪えているのがバレバレだ。
頭に手を当てながら顔を上げると、隣に戻ってきていた。その顔は、やっぱり笑っていた。
「…できんの?」
「直球だねぇ…」
とりあえず、脱がしてよ。左腕を上げられた。
コイツ。自分に会わなかったら、どうするつもりだったのだろうか?取り留めなく、そんなことを考えた。
「身体の作りは人とおんなじだしね。俺たちは人みたいに、男とか女とかに拘る必要なんてないし」
ボタンを外して、左腕を抜いてやった。適当に、脱衣籠に放る。
「子孫作りたいわけでもないからねぇ…」
そう言うケイの表情は、晴れやかではなかった。
「いいの?」
「ぼちぼちかな」
自嘲するような笑い方だった。その笑い方は好きではない。
「…じゃ、何ですんの?」
そう返されるとは、思っていなかったらしい。
その言葉に、ケイの目が少し揺らいだ。少しの沈黙。あたりを見回して、うーん。と唸る。
「寂しいからかなぁ…」
あと。憎たらしいからかも。
そう言うと、浴場に向かって歩いていった。その背中を、無言で追いかける。
寂しくて、憎たらしい。その答えの意味が。その時の自分には、よく分からなかった。