一夜
リビングの窓際のテーブルを見やれば、適当、というには大量かつ豪勢な料理、オードブルの類が盛り付けなどという言葉とは無縁、皿からはみ出さんばかりに山積まれていた。脇にはご丁寧に、これまたパーティー会場から失敬してきたと思われるワインが置かれている。
少しネクタイを緩めて第一ボタンを外したシャツにスーツ姿の日向は、夜景をバックにワインのコルクを抜く姿まで様になっていて、涎を流して今の今まで寝こけていたボサボサ頭にガウン姿の自分が急に恥ずかしくなる。
そんな感じで真紀がなんとなく所在無げでいても日向は全く気にする様子もなく、「ほれ」などと言ってワインの注がれたグラスなどを差し出す。その姿まで「かっこいいな」などと内心思ってしまう自分にもまた腹がたってきて、むっつりと立ちつくしていると、
「何、ムクれてんだよ? そんなに腹減ってたのか?」
と、呑気なものだ。
「違うよっ!」
相変わらず心の中では、「ああ~、そんな態度とりたいわけじゃないのに」と思いながらも素直じゃない返事をしつつ、日向の手からグラスをひったくるように取ると中身を一気に呑みほした。この際だ。自分が未成年であることは置いておこう。
「あっ! 呑んでんじゃねーよ! まずは乾杯だろうが」
真紀の呑みっぷりに慌てたように言い、日向は再び真紀のグラスにワインを注ぐ。
「パーティーで散々したんじゃないの?」
「馬鹿。お前とはしてないだろうが」
多少の皮肉をこめた真紀の言葉に日向は真面目に素直に赤面しそうな、そして考えてみれば当たり前のことを言う。
その言葉にワインのせいだけではなく実際赤面しながら、真紀の機嫌も少し治まる。窓際のスツールに腰を下ろすと、日向の顔を見つめ、少しグラスを上げた。
「じゃあ、日向小次郎のイタリア行きを祝して」
澄んだ音を立ててグラスが重なる。
「乾杯」
「しかし、お前も驚かせるな」
山のような料理もワインもすっかり減ってようやく人心地ついた頃、日向が言った。
「何が?」
まだ鶏の手羽先などを頬張りながらキョトンと真紀が聞く。
「まさか来るとは思わないだろうが。学校はどうした」
「休んだ」
「親はどう説得したんだよ」
「説得も何も! 先週、『そういえば日向、来週イタリアに行っちゃうんだよー』って話したら、前にも話したっていうのにまた大騒ぎになって、『あんた、お見送りは行ってあげるんでしょうね?』って…旅費くれた」
真紀の家で日向との仲は家族公認だ。サッカー知らずとも目にするような大スターと自分達の、しかも随分と男勝りな娘が何故、とは思いながらも(しかも最初は完全に疑っていた)、直接会ったことはないが電話越しでの日向の妙に真面目な人柄に赤嶺家の人々は好感を持っていた。
しかしそんな赤嶺家の事情など知る由もない日向はさらりと言ってのける真紀に口を開いたままだ。
「それ言ったら、あたしだって会えるとは思ってなかったよ」
「電話かけてきたじゃねーか」
「…それは! 別に見送りに来たって言うわけじゃなくて…その、様子聞きにかけてみたっていうか…」
真っ赤になってしどろもどろに言う真紀を日向は笑いながら見つめ、それからスツールから立ち上がると真紀に近付いて正面からふわりと抱きしめた。
「サンキューな」
「……」
真紀の手からポトリと手羽先の骨が床に落ちる。
「今日は、殴らねーんだな」
「…周りに、誰もいないもん」
沖縄で会う時、ゼロ距離まで近付く日向を真紀は、照れと人の目を気にすることから容赦なくどつくものだから、こんな体勢で突き飛ばされていないというのは日向にしてみれば奇跡みたいなものだった。
「そうか」
ぎこちない真紀が新鮮で可愛くて日向はクスリと笑う。
「そうだよ。あんたは自分が有名人だって自覚なさすぎ…」
ムキになって言い返そうとした真紀の唇はみなまで言葉を発する間もなく、日向の唇に塞がれた。
「誰もいないってことは、何でもできるってことだな」
再び魚のようになっている真紀に日向はニヤリと笑いかけ、そのままヒョイと肩に担ぎ上げた。
「きゃあっ! 何すんだよ!? 馬鹿! 下ろせ! エロ親父!!」
肩の上でジタバタと暴れる真紀に全く動じずに日向はベッドルームへと向かい、ベッドの上にボンと真紀を放ると部屋の明かりを灯す。
真っ赤になって半身起こした状態でベッドの上にいる真紀に日向は近付いて半身乗り出す。
「だーーっっ!!」
眼前ゼロ距離の日向の顔に、恥ずかしさも頂点に達した真紀は思わず叫び声と共に両掌底で日向の胸を突き飛ばす。
「うっ! …てめぇ…」
「た、タンマ!」
胸を押さえて背中を丸める日向にまだ両腕を突き出したまま、真紀は俯いて叫んだ。
身を固くしてギュッと目を閉じた真紀に怒る気をそがれたように、日向は息をひとつ吐いて真紀の足元に腰掛けた。真紀がそっと目を開けて恐る恐る日向に近寄ると、日向は真紀の肩をポンポンと叩いた。
「日向?」
「悪かった」
「えっ?」
いつになく殊勝な表情の日向に真紀は拍子抜けしたような声を出す。
「ああ、いや…。その、なんだ、今までだってそんなに会っていたわけじゃないがな、さすがに海外となるとな…」
髪の毛をクシャクシャとかき混ぜながら照れたように日向は言う。
真紀は日向のジャケットの袖をギュッと掴んだ。わかってる。東京と沖縄。今までだって充分過ぎるほど遠かった。それでも、自主トレーニングと称して日向は沖縄を訪れては真紀にも会ってくれていた。けれど、イタリアで日向はプロになるのだ。おいそれと日本に戻っては来れないだろうし、マスコミの注目度だって今までとは段違いになるはずだ。そうしたら今までのように会うことはきっと無理に決まっている。自分が寂しいと思っていたように日向が寂しいと思っていてくれたことが、言い出せずに飲み込んでいた言葉をわかってもらえていたようで、真紀には嬉しかった。
「あのねっ! あたしだって嫌じゃないんだよ? …だけどね、その……え?」
袖を掴んで俯いたまま慌てて真紀はだったが、すぐに視線に気付いたように顔を上げ、自分の言葉が失敗だったかのように口元を引きつらせる。
「…嫌じゃない?」
そう言った日向の瞳は明らかに輝いていた。真紀の肩に置かれた手にも、心なしか力が入っている。真紀は本能的に体を後ずらせ、再び手で日向を制する。
「だっ…ちょっ、タンマ! その、ね…? あたし、初めてだから…あの、その…」
「俺もだ」
日向はニヤリと笑って力強く真紀を抱き寄せると、黙らせるように唇を塞いだ。
「んっ…」