ある日の話
千歳ほんま何も言わんからな、と最後冗談のように落とされた一言が妙に引っかかった。
「言わん…?」
「せやで?前から思っとったけどな、千歳ってつらいーとか苦しいーとか一言も言わんやん。怒ったとこかて見たことないし」
(“感情が欠落している”)
頭のなかに声が響いた。それは別に誰の声でもないし、誰かに言われたものでもない。ただ俺の記憶をまとめただけの言葉だ。
はじめそれに気付いたのは誰だったか。辛くないかと、声をかけてきたのは、ミユキだった気がする。
その頃には既に俺はある特定の感情を持ち合わせていなかった。それは辛いだとか苦しいだとか、苛立ちや焦燥感まで。喜怒哀楽で表すのなら、“怒”と“哀”がすっぽり抜け落ちてしまっていたのだ。
自分ではそのことに気付いていないから、言われて初めてそうなのかと気付く。他人には、そんな俺が無理して我慢していると思われているらしい。
会う人会う人そんなことを言われて、ようやく俺は自分がおかしいのだと知った。
「白石は、」
発した声は掠れかけた。ひとつ言葉を切って、再び紡ぐ。
「喉が渇くとき、あると?」
「喉?」
ぽかんと音がしそうな顔で見上げてくる。うんと大きく頷いたら、彼は、そらもちろんあるで?と返してきた。
「水飲んでも乾いて、乾いて、ずっと乾くとき、なか?」
白石は流石に少し黙り込んだ。ややあって、ないな、と答える。
「なん、自分昨日そんなやったん?」
何度目かの肯定をすると、彼はずっと難しい顔をした。
「そらあかんなぁ。それしょっちゅうなん?」
「たまに。でも、昨日は異常やったと。一昨日からずっと。あんな長かったつは初めてつたい」
「治まったん?」
首を縦に振る。どれだけ水を飲んでも駄目だが、時間が経てば治まると言えば、白石は深く唸った。
「何やろ、それ」
「わからんばってん、昨日は白石の言う通り塩水を飲んだら少し楽になったばい」
ありがとさん、とお礼を言うと、柄にもなく彼は照れたようで、ほんの少し上ずった声になった。
「そんならええけど、やっぱ熱中症やったんちゃう?まぁまた今度そんなんなったら、ちゃんと俺に言えや」
ぱちりと、ひとつ大きな瞬きをした。
「白石に?」
「せや。ひとりよりふたりの方がなんやええ案出るかも知れんやろ?」
彼の言葉を考えて、わかった、と答えた。決まりやな、と言った白石は、子供の悪戯を見つけときのように小さく笑っていた。
以前と比べて異常な頻度でやってきたそれは、その度に白石とあーでもないこーでもないと頭を悩ませた。
ある時はずらりと並べられたペットボトルの水を片っ端から飲まされたり、またある時は彼が作ったというとても飲み物の色をしていない得体の知れない“何か”を口に含まされたこともあった。
それでも大した効果はなく二人して肩を落としていたのだが、あるとき俺は症状が不意に消えることに気が付いた。
確かに喉が渇いて仕方がないのに、白石を呼ぶとそれがいつの間にかぱったり治まっていたりするのだ。あまりに頻繁にそんなことがあるものだから、彼に性質の悪い嘘だと思われてしまったほど。
俺は必死でさっきまでは確かにそうだったのだと説明したが、一度損なった白石の機嫌はなかなか治らなかった。
白石の顔を見ると治るったいと言ったとき、ようやく彼がこっちを向いた。
「は?なんで?」
「俺にもわからんとよ」
しかし事実なのだから仕方がない。初めは半信半疑だったそれも、最近ではほぼ確信に変わっていた。
「…パブロフの犬みたいなもんか?」
「さぁ、どげんやろねぇ」
何となく返した答えを聞いているのかそうでないのか、白石はふっと視線を伏せた後、あんな、と小さな声で話し始めた。
「前に自分、言うてたやんか。自分は感情が欠落しとんのやって」
あぁ、と己の言動を振り返る。
白石と解決策を探すうちにそんなことまで言った気がする。
「俺な、あれがずっと気になっててんけど」
それな、と彼にしては珍しく、言葉を選ぶようにひとつひとつ区切りながら、確かめるように音にした。
「右目が見えんくなった後からちゃう?」
思いも寄らない言葉に面食らい、声が出なかった。
「それがあんまりにもショックで、千歳は、自分でも知らんうちに、自分も、誰も傷つけんように心の半分を切り捨てたんとちゃう?それで、その反動でこんなことが起こるんちゃう?やって千歳の喉が乾くんは、いっつもお前がひとりのときだけやんか」
開いた唇からは、何の音も出なかった。ただ息だけが続いていく。青天の霹靂のようなそれは、俺にとってまさに雷に打たれたも同然の言葉だった。
「お前が押さえ込んだ感情が、出たい出たいって言うてんのを無意識に止めてるから渇くんちゃう?」
なぁ千歳。
白石の言葉だけが、この狭い四畳半の部屋に木霊した。
「何も考えんでええねんで。思っていること、全部俺に言うて。何を感じて、いまどんな思いをしてんのか」
そんなことを言われても、困る。いま俺は何を思っているのか、自分ではわからないのだ。
笑えばいいのだろうか。駄目だ、笑い方がわからない。数分前の俺はどうやって笑っていた?思い出せない。俺はどうやって泣いていた?どうやって怒っていた?何がそんなに悲しかった?何でそんなに焦っていた?どうして誰もいなかった?どうして誰かじゃなかったのか。どうして俺だったのか。どうして俺ばかりこんな思いをしなければならないのか。この痛みを誰にぶつければいいのか。誰を憎めばいいのか。どうして誰も教えてくれない。どうしてこんなに苦しまなければならない。なぜひとりで抱え込まなければならない。当り散らしたい。何もかもなかったことにしてしまいたい。目が見えなくなるなどと。テニスがもう出来なくなるなどと。それが桔平のせいだなどと。考えたくもない。見たくもない。聞きたくもない。
すべて忘れてしまえたら、どんなに楽か。
瞬間、けたたましい音が辺りに響いた。俺の左手がじんじんと痛む。台の上から落ちたテレビが横になり、無残な後姿を晒していた。
俺は、その惨状を引き起こしたのが俺だと信じられなかった。気が付けば殴り飛ばしていたのだ。頭の中で、うるさいくらい警鐘が鳴り響く。
「白石、ちょっと、帰って欲しか。これ以上ここにおったら、俺何するかわからんとよ」
視線を合わせずに口にしたが、彼の身体はぴくりとも動かなかった。
「千歳がやりたいようにやればええ。暴れたいんやったら暴れて、怒鳴りたいんやったら怒鳴って、殴りたいんやったら殴ればええ」
言葉に、キッと彼を睨みつけた。白石は何の表情も浮かべず、だけど視線だけは離さずに真っ直ぐ俺を見ていた。
「俺は絶対に帰らへん。お前が何言っても、何しても帰らへん。せやから、千歳」
その先にどんな言葉が続くのかなんてわからない。感情が暴走して、もうわけがわからない。頭の中でわけのわからない言葉が高速でぐるぐる回っているのだ。どうすればいい。助けてくれ。誰か。
不意に、白石が両手を俺へ伸ばした。
「おいで」
ぱん、と、水を入れすぎた水風船が破裂したような、そんな錯覚に陥った。弾けて、あたり一面に水が散らばった。