温かい唇
男がそんな表情で目の前に現れるなど、到底現実とは思えずに、無意識が男の存在そのものを幻として否定する。
しかし帝人を担ぎ上げた男が歩き出すと、振動と揺れる視界は現実感を持って帝人の意識を揺さぶった。なによりも相手の肩でふたつ折りにされている腹部が圧迫されて、リアルに息苦しい。
少しだけ正気づいた帝人は、揺れながら遠ざかっていく後輩に向かって、現実的な指示を飛ばした。
「彼らの脱退手続きを済ませておいて!」
「えっ!? はいっ!? 先輩!!」
しかしそれは現実的でこそあれ、現状を欠片も認識していないものだった。
帝人はそのまま、動揺する目出し帽の集団の元から、男の肩に担がれたまま悠々と連れ去られた。
帝人が下ろされたのはどこか見覚えのある屋内だった。
なにか固いごつごつした物の上に腰を下ろさせられると同時に目出し帽が剥がされ、視界がはっきりとした。
(この部屋――)
物の少ない簡素な、家具や壁が所々陥没していたり欠けていたりするその部屋が、誰の部屋なのか思い出そうとして、無意識に思考を停止する。それは帝人が思い出しても良いような記憶ではなかった。
息苦しいような不安感を覚え、帝人は立ち上がろうとした。
「手を、洗わないと……」
ここは、自分のような汚れた人間が居ていい場所ではない。少なくとも、手ぐらいは洗わなければ。
そう思い、実行しようとした帝人だったが、立ち上がることはできなかった。なにか固いものが腹の前にまわされていて動けなかったのだ。
気付けば背にも同じぐらい固いものが当たっている。尻の下も含めて、その固いもので囲われてしまっているようだった。
けれども振り向いて、あるいは腹部に視線を落として、それがなんなのかを確認することは帝人にはできなかった。
「――手、を……」
「帝人は綺麗だ。誰よりも」
誰かの声が聞こえる。けれどもそれはありえない声で、帝人はその声をも否定した。
何故なら帝人が思い浮かべたその人物は、帝人を(帝人が自分と同一視している存在を)汚らわしいものとして捨てたのだから。こんなことを言う筈がなかった。
それなのに、幻聴は聞こえ続ける。帝人の未練が聞かせているのだろうか。
「どこも汚ェところなんてねえよ。帝人は、綺麗だ」
「僕、は――」
「綺麗だっつってんだろ。それでも納得できねえなら――俺が綺麗にしてやるよ」
右手が温かいものに包まれる。そしてそのまま引き上げられ、やはり温もりのあるものに押し当てられる。
「――手――」
「――細っせえ指……こんなに冷たくて、傷だらけで……」
幻聴に合わせるようにそれは動いて、温かい息が吹き掛けられる。
そのまま濡れたものに指先を含まれて、帝人は背を粟立たせた。それは覚えのある感覚だった。不快感と対極にある、愛しいひとがかつてくれた感覚だった。
そのひとは口付けたり舐めたりすることが好きらしく、ことあるごとに帝人の額にキスしたり指を舐めたりしていた。
けれどもそれは昔の話だ。今はもう、彼は帝人になど触れたくはない筈だった。
「手――汚い――」
「だから、舐めて綺麗にしてやってんだろ? 足りねえか?」
優しく唇で指を挟まれ、ねっとりと舌を這わされて、ぞくぞくとしたものが背筋を這い上がり、熱いなにかが胸の奥から込み上げてくる。
それはもう二度と与えては貰えない筈だった甘美な感覚で、錯覚と誤魔化すには強烈すぎた。
はらり、と涙が舞い落ちる。
背後から帝人を抱いている誰かは、それに気付いて頬に唇を寄せてきたようだ。
視界の隅に金糸が映り、帝人は咄嗟に目を閉じた。見てはならないものが見えてしまいそうだったからだ。
頬に柔らかで温かいものが押し当てられ、涙を吸い取られる。
それが、胸が痛くなる程心地よく、涙が溢れ続けてしまう。
「――なん、で――?」
思わず呟けば、頬に温かな息が吹き掛けられた。
「好きだって、言ったろ? 俺は、帝人が好きなんだって、何度も」
「――っ」
言われた。何度も。
けれどもそれは帝人がまだ彼に軽蔑されて捨てられる前のことで、今の帝人にはその言葉を受け取るだけの資格はなかった筈だった。
「――っ、僕、は……汚くて、だから、軽蔑されて、しまって……だから、キレイに――でも、それで益々、汚れていって……汚い部分を、洗い流して、腐ってるとこ……削ぎ、落として……でも、全然キレイになんて、戻れなくて……」
嗚咽混じりの言葉を涙と共にこぼれ落として行く。
みっともなくて、情けなくて、どんどんと惨めになっていく。
それなのに頬に触れる温もりは消え去らない。流れ続ける涙をそっと拭い去りながら、ありえない言葉を与え続けてくれる。
「綺麗だって、俺が言ってんだろ。それでも納得できねえなら――俺も、帝人と同じだけ、汚れてやるよ。だから、安心しろ」
「――なに、を……」
ありえない。
ありえない。
彼が汚れるなんて、ありえる筈がない。
だって彼は、誰よりも眩しく輝いているひとだから。太陽を汚すことができないように、彼を汚すことも、決して許されない。
「――ダメ、です」
「駄目じゃねえ。俺の大事な綺麗な帝人を汚ェモンだって決め付けんなら、俺もおなじモンになってやる。その権利が俺にはある」
「――ダメ、です。……静雄、さん……」
恐る恐る目を開くと、驚く程近くに端整で男らしい顔があった。
サングラスで隠されていない両目は優しく細められていて、真っ直ぐに帝人の瞳を覗き込んでいた。
「やっと俺の名前を呼んで――俺のこと、見てくれたな……帝人」
低音の声は柔らかくほぐれて、まるで喜んでいるかのような響きを伝える。
そんな表情で、そんな声で名を呼ばれてしまっては、してはならない期待をしてしまう。
(――ダメだ。目を閉じなきゃ。耳を塞がなきゃ。心を閉ざさなきゃ。期待して、ダメだったらもう、僕はもたない――)
そう頭では思っているのに、帝人は目の前にある大切なひとから目を逸らすことすらできなかった。
「――ダメ、です……」
「駄目じゃねえっつってんだろ。俺がいいって言ってんだ、素直にいいことにしろ」
「――ダメ、なんです……」
「駄目じゃねえ。俺はまだお前にフラれてねえんだ。なら恋人だろーが。だから俺にはお前に頼れとか縋れとか甘えろとか言う権利がまだあるんだよ」
「――」
「……それとも、俺をフるか? 俺から離れたいか?」
「――わ、け――」
へたり、と眉を下げる静雄に、帝人の胸が痛んだ。
離れたい筈がない。離れたがっていたのは静雄の筈だった。
それなのにそんなに哀しそうな表情をされては――
「――そんなわけ、ないです――」
「そっか。――良かった」
安心した子供のように無防備な笑顔に、涙がとめどなく零れる。
けれども今度は目の前にある唇は拭ってくれない。
代わりに小さく慄く帝人の唇にそっと押し当てられ、優しく啄ばんでくれる。
「帝人――帝人。好きだ。もう二度と、間違えたりしねえから――もう二度と、俺から離れないでくれ――」
「……静雄、さん……」