都合のいいおとこ
それが4限前の休み時間の話。
政宗と別れ、自分の教室に戻る間も、考えはまとまりをみせなかった。
政宗の、唯一無二の親友だと常磐津が振れ回っていることを知った時の強烈な嫉妬心は、ある種ファン心理に近いものだったのかもしれない。常磐津に対して、恐ろしい以外の初めての感情がジェラシーだと知ったら、例えば京介の恋人であり、政宗の妹であるえみかなんて黙ってはいないだろう。常々、なんでそんなにお兄ちゃんにひっつくの、と言われているところを見るに、それはそれであまり面白くないらしい。そんなえみかは地球を何周してあげてもいいぐらいには可愛いと思うし、とことん愛でつくしたいとも思うが、それとこれとは話が別だ。
常磐津がもし本当に政宗の親友であるなら、それは限りなく由々しき事態なのである。
政宗先輩の男友達の中で一番愛されているのは俺でなければならないのだ、という、あまりにも身勝手な妄想を並べ立てる脳内はどうにも散らかっていて、表情はどんどんと暗くなってゆく。残念な話、例えその事実を自分が許さなかったとして、あの常磐津に勝負を挑めるはずもない。大抵の怪我は二日で治すことが出来るが、それは生きていればの話であって、殺されたら流石に自力で蘇生することは出来ないし。かといって政宗先輩の隣は俺のものだし。どうすればいいのか検討もつかなかった。まさか直談判しに行くわけにもいくまい。
「政宗先輩の隣にいないでください? って? 常磐津に喧嘩売ってるも同然じゃん……」
「ん? 僕を呼んだかい?」
「へ」
廊下をだらだらと歩いていた時の、たったそれだけの呟きに、一体誰が反応するというのだろう。ああそうだ。そんなのは勿論、話題に上がった当人しかいない。しかし、ここは二年の教室がある三階であり、三年の教室はもう一階上がらねばならないはずだった。タチの悪い冗談はやめてくれ、とどこか祈るような気持ちで、声が聞こえた方向へと(その行動を身体が拒否しているかのごとく、それはもう緩慢な動作で――)振り向くと、そのまま視線の先には、常磐津次郎その人が立ち止まる形で、居た。
あまりのことに京介の思考は一瞬停止しかけるが、此処で逃げ出すよりかは、弁解した方がまだマシだということに気づき、必死で平静を装う。現在は二月の下旬だと言うのに、首の後ろがスッと抜けるように冷え、じわりと汗の滲む音が聞こえた。ような気がした。
こんなに至近距離で、常磐津を見るのは初めてだった。それは当然近寄らないようにしていたことが一番の理由ではあるが、且つ、京介の活動範囲内に彼がいないこともあってのことだ。かおりが所属する演劇部の部長であることは周知の事実だが、京介が演劇部に遊びに行く時はいつも、常磐津がいない時間、そして場所を選んでいる。
ああ、ヤバい、トウコとか、ハルカとかナツミとかアキエとか、俺のために演劇部辞めたとか言ってたよなあ。ああなんて怖いことを思い出すんだ俺の出来過ぎた脳みそは。目の前で立ち止まったままの常磐津を見詰めながら、京介の思考はバタバタと忙しなく踊りだす。首元では飽き足らず、そろそろ額の方にまで汗がにじみだしたとき、無意味な沈黙は、意外にも常磐津の手によってゆるりと破られた。
「僕がなにか? どうかしたのかい?」
「………………いえ」
ってなんだよ! と思わず自分で自分にツッコミを入れたくなるほど、それはもう怯えきった声が、届くか届かないか分からない程度の音量で口からもれた。出た、のではなく、もれた、という表現の方がよっぽどお似合いである。京介は視線を横に外しながら、数秒前の自分を呪うことに専念した。逃げなかったのは弁解するためであって自分を呪うためではなかったはずなのに、あまりの恐怖にまともに思考を運転させることもままならないなんて。
その様子を見て、常磐津の表情は少々変化を伴った。口の端が上がり、目元が細められる。京介をじっと見る、その視線が、正面の方まで見事に突き刺さる。京介の顔色は灰色を通り越して殆ど蒼白だった。こっち見てる、明らかにこっち見てる。もういっそ自分から死んでしまった方が楽なのではないかという夢想さえ持ちあがる始末で、自身の精神がどれだけ脆弱か思い知った。
しかし、そんな京介の考えとは裏腹に、常磐津の声はあまりにも軽く響く。
「君、誰だっけ」
「………え」
「なんかさ、まっつんとよく一緒にいる子じゃない? あ、まっつんって三年の松本政宗ね」
「いや!……いやっ全然、そんな、全然いないですよ!?」
「ええ、そうだっけー?」
「う、あ……」
一瞬、このまま逃げ切れるかも、と思ってしまった自分が憎い。俯かせていた顔を勢いよく挙げて、頬に流れる汗には気づかない振りをして、懸命に応えたのに。語尾が上がったような声は、明らかに京介を視認しているようだった。
一番最悪のパターンじゃないか、と、京介が息を呑み、ほとんど死ぬ覚悟を決めた瞬間、常磐津の表情がパッと明るい色を示した。一瞬のことだ。とうとう視界に異常をきたすぐらいに緊張が蓄積されたのかと自分の脳を疑ったが、ゆっくりもう一度その表情を見返すに、その仮説が明らかに間違いであることが分かる。思わず怪訝な表情になることを、自分に許してしまった。何をそんな嬉しそうにしているのか、京介には一切の理解が許されなかったし、掴み切れるようなものではなかった。
じ、っと、視線が交差する。京介の視界に飛び込んでくるのは、盛大に改造された制服と、そこから少しだけ覗く、自分以上に白い肌と、やはり初めの印象の通りの「端正な顔立ち」、それである。
はあ、本当に人形みたいにきれいな顔をしているんだなあ。それなのに死神だなんて、やっぱりどうしようもなく、恐ろしすぎやしないだろうか。京介の思考は、殆ど外に漏れているようなものだった。それを見計らうようにして常磐津が言葉を並べ始める。
「君ってさ、まっつんのこと好きんだよね? 僕も好きなんだ、彼のこと。面白いよねえ」
「は!? え!? あ、あ……はあ……」
「僕のまっつん秘密情報教えてあげるからさ、君も知ってること全部教えてよ」
「……え?」
「え?」
「え?」
「え、駄目かい?」
「いや、そういうわけじゃなないんですけど……」
よく意味がわからなくて。と、言いかけてやめる。
確かに、政宗の恋人であるめぐみと常磐津が、なぜか政宗の情報を交換していることは知っていた。しかしめぐみからすでに情報を提供されているのに、もはや京介が伝えるべきことなどないのではなかろうか? そもそもそんなに知りたければ本人に聞けば教えてくれるんじゃないのか。様々な疑問が、浮かんでは消える。
「どれだけ探究心旺盛なのかって?」
殆ど間を置かず、常磐津は続ける。そうとも言えるのだろうか、京介の表情は先程からより一層、怪訝なものを見る目に変わっていた。
「まっつんは僕に教えてくれることと教えてくれないことがあるんだよ。口を割らせることになると喧嘩になっちゃうし、出来ればこの服を汚したくないから僕からはそういうものを持ちかけたくないし……だったら、周りの人間から聞けばいいんじゃないかな、って、そういう寸法だね」
「……なるほど!」